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ウイリアム・スミス・クラークと札幌農学校~Boys, be ambitious! Be gentleman!

4月16日 This Day in History

ウィリアム・スミス・クラーク

今日は何の日 明治10年4月16日

札幌農学校教頭のクラークが帰国の途につく

明治10年(1877)4月16日、札幌農学校(現在の北海道大学)教頭のウイリアム・スミス・クラークが、帰国の途につきました。その際に残した「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の言葉はよく知られます。

ウイリアム・スミス・クラークは1826年、アメリカのマサチューセッツ州アッシュフィールドで、医師の父・アサートン・クラークの息子に生まれました。 日本では文政9年にあたり、水戸学の藤田幽谷が没し、蘭学者の箕作秋坪(みづくりしゅうへい)が生まれています。1848年にアマースト大学を22歳で卒業後、ドイツのゲッティンゲン大学に留学して鉱物学、化学を学び、博士号を取得。その後、母校に戻り、アマースト大学教授となりました。ちなみにその時、初の日本人学生として在校していたのが、新島襄です。

やがて南北戦争が始まると、教授職を辞して北軍少佐として従軍。マサチューセッツ21連隊の大佐となり、ペンシルバニアのアンチェタム川の戦いで形勢を逆転して南軍を撃退する活躍を示します。このため陸軍准将に推されますが固辞し、2年間の従軍後、退役しました。 その後、マサチューセッツ州立農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)の設立に関わり、1867年には41歳で同校の学長となります。

その任期中、新島襄の紹介もあり、日本政府からの招聘を受けました。当時、維新後の明治政府は北海道に開拓使を置き、その初代長官に薩摩の黒田清隆を任じています。黒田は北海道の開拓をアメリカのシステムを取り入れながら進めることを考えていました。そして将来の開拓事業の指導者となる若者の育成が急務であるとし、ワシントンの吉田大使に、大学教育の経験を持つ適任者を探すよう求めます。やがて白羽の矢が立ったのがクラークでした。クラークは、大学の1年間の休暇を利用して訪日するかたちでこれを承諾します。

明治9年(1876)7月、50歳のクラークは2人の教授を従えて、札幌農学校教頭に赴任しました。新しい学校は第一期生16人で始まります。その中に佐藤昌介、渡瀬寅次郎、大島正健らがいました。 この時、クラークは日本側が考えていた規則を笑い飛ばし、「こんな規則や取締りで人間を作ることはできない」と直ちにやめさせました。代わりにクラークが設定したのが「Be gentleman(紳士たれ)」というものです。そして紳士として扱われることを知った学生たちは、意外にも自分たちの行動を自制し、羽目を外すことを慎むようになりました。効果はあったのです。

クラークの教育手腕を認めた黒田は、学生たちに高い道徳教育を施すことを依頼しました。するとクラークは、「私はキリスト教に拠らずして道徳を教える術を知らない」と応えます。クラークは生粋のピューリタンでした。しかしキリスト教は当時の日本では国禁であり、黒田もそれを認めるわけにはいきません。その後、黒田は学生たちの真剣な様子とその学力が確実に向上していることを確認すると、大いに満足し、クラークに「おおっぴらでなければ、あなたが良いと信じる道徳教育をして頂いてかまいません。あなたはきっと私が期待するような人材を育ててくれるでしょう」と、キリスト教による日曜学校を開くことを認めました。

クラークの授業はすべて英語で行なわれ、学生たちはこれをノートに筆記します。クラークは学生たちのノートを一人ひとり確認し、誤りを丁寧に直したといわれます。さらに学生たちを連れて原野や森、山に赴き、動物学、植物学、鉱物学をその場で教えました。 学生の食事はパン食を推奨し、米はライスカレーの時のみ認められました。一説にライスカレーという言葉はクラークの発案ともいわれますが、実際はもう少し遡るようです。

明治10年4月、任期を終えたクラークはアメリカに帰国することになります。学生と職員たちはクラークを乗馬させ、札幌郡寒月村島松まで見送りました。別れの時、クラークは下馬すると見送りに来た人々と握手を交わします。そして再び馬上の人になると、手綱と鞭を持ち、振り返りざま叫びました。「Boys be ambitious like this old man(少年よ、この老人の如く大志を抱け)」。この言葉を最後に、クラークは教え子たちの前から去ったといわれます。

アメリカに帰国後、クラークはマサチューセッツ州立農科大学の学長を辞し、洋上大学の計画に参加しますがうまくいかず、鉱山会社を経営しますが、これも多額の借金を抱えるに至りました。そして失意の内に健康を害し、1886年に没します。享年60。

死の間際、彼はこう言ったといわれます。「天の神に報告できることが一つだけある。それは、札幌における8ヵ月である」 実際、クラークの教えは1期生から後輩たちに継承され、札幌農学校からは新渡戸稲造や内村鑑三らを輩出することになります。

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