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源義経、衣川で兄・頼朝に討たれる

2017年04月30日 公開
2022年04月11日 更新

4月30日 This Day in History

平泉、源義経終焉の地
平泉、源義経終焉の地(高館義経堂からの風景)

 

今日は何の日 文治5年閏4月30日

源義経が衣川で討死

文治5年閏4月30日(1189年6月15日)、源義経が衣川で討たれました。「判官贔屓」という言葉があるほど、日本人が好む英雄の一人です。

平治元年(1159)、源義朝と常盤御前の間に生まれた義経(牛若丸)ですが、父・義朝は同年に起きた平治の乱に敗れて落命、常盤は公家に再嫁し、義経は鞍馬寺に預けられました。一説にこの時、義経は鞍馬山の天狗に夜な夜な兵法を学んだといわれます。もちろん伝説ですが、義経に兵法を教えたのは源氏の残党とも、山伏であったともいい、さらには鬼一法眼(きいちほうげん)という陰陽師であったともいいます。実は鬼一法眼は日本の剣術の遠祖とされる伝説的な人物で、京八流はその流れを汲むとされます。実際、京八流には鞍馬流、義経流という流派もあり(鞍馬流は現存します)、義経とのつながりを窺わせることからも、義経が鞍馬山で何らかの兵法を学んだ可能性はあるのでしょう。

やがて出家を嫌い、鞍馬寺を出奔した義経は自ら元服し、藤原秀衡を頼って奥州へ向かいました。一説に郎党として武蔵坊弁慶を伴っていたともいいます。義経は承安4年(1174)の16歳から6年間を奥州で過ごしたといわれますが、おそらく奥州の原野を駆けながら、古いしきたりにとらわれない、合理的な発想での戦い方を身につけたのでしょう。

治承4年(1180)、兄・源頼朝の挙兵を知ると、奥州からとるものとりあえず駆けつけた義経は、黄瀬川で頼朝と対面。以後頼朝は義経と範頼(義経の異母兄)の二人の弟たちに遠征軍を任せ、すでに京都に入っている木曾義仲の追討を命じます。東海道を西に進み、宇治川の合戦で義仲軍を打ち破った義経らは、京都に入り、西国で勢力を盛り返した平氏と対立。義経の軍事的天才性が発揮されるのは、この頃からです。

頼朝から平氏追討を命じられた範頼・義経は、摂津福原に陣を構える平氏軍に挑みます。海際の東西に陣を敷き、北方の街道を固めた平氏軍に源氏軍は攻めあぐねますが、西の一ノ谷の背後の崖から、崖下の敵陣を目指したのが義経でした。「ひよどり越えの逆落とし」です。敵の待ち構えている場所ではなく、手薄な場所から攻めればよいという、常識的な固定観念を覆した発想の勝利でした。そうした義経の発想は、続く屋島の合戦でも発揮されます。強力な水軍をもって屋島に陣取る平氏軍に、劣勢の水軍で挑んでも勝ち目はない。それならば…。義経は馬を船に乗せて四国に渡り、陸上から騎馬軍で屋島の敵軍の背後を衝いたのです。そして最後の壇ノ浦の合戦では、いよいよ軍船同士の船戦となりますが、潮流に乗った敵方に攻め込まれ苦戦となると、義経は敵の水夫を弓で射ることを命じます。通常は兵の数に入れない水夫を次々と倒すことで、平氏方の軍船は進退がままならなくなり、形勢は逆転しました。ここでも常識破りをやったのです。かくして平氏はついに滅亡しました。

しかし義経の型破りな発想は、残念ながら政治の世界では逆効果を生み、頼朝の厳格な御家人統制の枠に収まらず、後白河法皇の策謀もあり頼朝との仲は決裂。追われる身となって、再び奥州を頼ることになります。藤原秀衡は義経を総大将として、奥州に圧力をかける頼朝と決戦することを企図しますが、秀衡が他界すると息子の泰衡は頼朝に屈服。義経の首を差し出すべく、衣川の館にいた義経を襲いました。少数の郎党しか周囲にいない義経は防ぐ手立てもなく、弁慶が敵を防いで立ち往生する間に自刃したとされます。享年31。

不世出の若き武者の運命の変転に、日本人は今も哀惜の念を抱き続けています。東北地方には、義経逃亡伝説も残っています。

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