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平野長泰~ただ一人、大名になれなかった「賤ヶ岳の七本槍」

2017年05月07日 公開

歴史街道編集部

今日は何の日 寛永5年5月7日

賤ヶ岳七本槍の一人、平野長泰が没

寛永5年5月7日(1628年6月8日)、平野長泰が没しました。賤ヶ岳七本槍の一人で、7人の中で唯一、大名になれなかったことで知られます。

平野長泰は永禄2年(1559)、織田信長の家臣・平野大炊頭長治の長男に生まれました。通称、権平。また諱の長泰は、当初は長勝であったといいます。父・長治は尾張国津島に住み、長泰も津島に生まれました。

その後、父・長治が羽柴秀吉に付属されたため、長泰も若くして秀吉に仕えることになります。 本能寺の変後、父・長治は姫路城の留守を任され、長泰は翌年の賤ヶ岳の戦いに参戦しました。長泰は同じ秀吉麾下の加藤嘉明らとも親しく交わり、剛勇を競っていたようです。

賤ヶ岳の合戦では、柴田勝家軍を果敢に追撃し、敵の小原新七、村松友十郎の二人と同時に槍を合わせ、崖から転げ落ちながらも二人を仕留めて首級をあげました。 この活躍に秀吉からは「秀吉眼前に於いて一番槍を合わせ、その働き比類無く候条」という感状と3000石を与えられて、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、片桐且元らと並ぶ賤ヶ岳七本槍の一人に数えられます。

長泰は翌天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦でも活躍、文禄4年(1595)には大和国十市郡田原本で5000石の知行を与えられました。慶長3年(1598)には豊臣姓を賜り、従五位下遠江守となります。ところが七本槍の他の武将たちが皆、万石以上の大名となっているのに、長泰は5000石に留めおかれたままでした。性格が猛々しく、命令に背くこともあったので、秀吉に疎まれたともいわれます。そのためか、関ケ原合戦では東軍に味方しますが、武功を上げられなかったようで、本領5000石を安堵されるに留まりました。

慶長19年(1614)からの大坂の陣では、幕府より警戒されたらしく江戸留守居役を命ぜられ、大坂城落城後に帰国を許されています。 その後は、徳川家康、徳川秀忠の御伽衆となり、長泰は寛永5年、駿府城近くの安西で没しました。享年70。

なお長泰の子孫は徳川家の旗本として生き、明治維新後、石高が見直されて1万石を超え、何と明治新政府の下で大名となって田原本藩を立藩することになります。とはいえ、明治4年(1871)の廃藩置県で藩が消滅しますので、3年間の大名でした。ただ、福島正則、加藤清正、加藤嘉明らが江戸時代初めに改易されていく中で、長泰の家系はしぶとくも維新を迎え、一瞬とはいえ大名となって、おそらくは長泰の悲願を成し遂げたといえなくもないのかもしれません。

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