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大久保利通 公平無私の精神

2017年05月14日 公開

歴史街道編集部

大久保利通

今日は何の日 明治11年5月14日

紀尾井坂の変。大久保利通が暗殺される

明治11年(1878)5月14日、大久保利通が暗殺されました。西郷隆盛と並ぶ薩摩藩倒幕派のリーダーで、維新三傑の一人に数えられることでも知られます。

人気という点でいえば、地元の鹿児島でも西郷とは比べものになりません。しかし、大久保の場合、自ら嫌われ役を買って出ている部分もあります。伊藤博文はこういいます。「あの人の威厳は一種天稟(てんぴん)であったが、珍しいほどの広量な人物で、公平無私であり、人というものは、どのような相手でも重んずるという風があった」。公平無私、つまり「公」に徹するに峻厳で、「私」を捨て去り、それが明治国家に必要なものであれば、どんな難題にも我が身を捨てて臨む、大久保の本領はそうした姿勢にあったように感じられます。

天保元年(1830)8月、大久保は鹿児島城下に生まれました。吉田松陰と同い年で西郷の3歳下になります。幼名は正介、後に一蔵と称します。嘉永元年(1848)、父親が世継ぎ争いの「お由羅騒動」に連座して島流しになり、大久保家は極貧生活を強いられました。食べ物にも事欠く日には、友人の西郷家の食卓に黙って連なったという話もあります。

3年後、島津斉彬が藩主になると父の処分は解かれ、大久保は蔵役、御徒歩目付を務めますが、斉彬に抜擢された西郷に比べれば、下役に過ぎません。しかし安政の大獄が始まり、斉彬は急死。西郷は奄美大島に流罪となります。

藩の下級武士の間で、西郷に次いで存在感を増していた大久保は、新藩主忠義の実父で後見役の久光に接近しました。久光といえばお由羅の子であり、斉彬派の人々からすれば快いはずがありませんが、大久保は久光の信頼を得て32歳で小納戸役に抜擢され、藩政に関与します。名より実を選んだのです。大久保は、久光が望む率兵上洛の準備を進めるとともに、西郷の呼び戻しを進言。しかし旧主斉彬が久光派に暗殺されたと疑う西郷は久光と相容れず、再び遠島に処されます。両者の板挟みとなった大久保は、一度は西郷と刺し違えることをも覚悟しますが、しかし冷静に薩摩藩の舵取りを果たす道を選びました。

元治元年(1864)に西郷を呼び戻すと、第一次長州征伐では薩摩藩がイニシアティブをとることを幕府に認めさせ、さらに薩長同盟を締結。常に西郷を表に出しつつ、大久保は裏で謀略面を担当し、薩摩藩を武力倒幕に向けて推し進めます。そして慶応3年(1867)の大政奉還後、岩倉具視と組んだ謀略の末に王政復古の大号令に漕ぎ着け、明治新政府の発足に至るのです。

明治政府の参議となった大久保は、明治4年(1871)には大蔵卿に就任し、西郷、木戸孝允らと廃藩置県を断行。その後、欧米を視察して日本の進むべき方向をプロシア風の「富国強兵」と見極めます。そしてそのためにすべての障害を排除する覚悟を固め、帰国後、朝鮮問題で揺れる政府から盟友・西郷を失脚させると、初代内務卿に就任。地租改正、徴兵制を実施、殖産興業政策をとりました。また不平士族に対しては断固たる態度で臨み、明治10年(1877)、西郷との西南戦争に勝利します。しかし、西郷の死に接すると、泣きながら自宅内をうろうろしたと伝わります。

そして翌年、参朝途上の馬車を紀尾井坂で石川県士族らに襲われ、暗殺されました。享年49。大久保の死後、巨額の借金が残りましたが、それは公的事業の補填に、自らの財産をあてていたためであったといわれます

iyashi

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