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真田幸隆、悲願の旧領回復

2017年05月25日 公開
2023年03月31日 更新

『歴史街道』編集部

六文銭

今日は何の日 天文20年5月26日

真田幸隆が戸石城を攻略

天文20(1551)年5月26日、真田幸隆(幸綱とも)が戸石城を攻略しました。幸隆は武田信玄配下の智将で、真田昌幸の父親、真田信幸・信繁兄弟の祖父としても知られます。

戦国の世にあって精強を謳われた徳川軍団を散々に翻弄し、その武名を天下に謳われた真田昌幸と幸村父子。彼らの兵法と智謀は先代譲りのものでした。すなわち昌幸の父親、真田弾正忠幸隆。信州真田氏の中興の祖ともいうべき人物です。

永正10年(1513)、東信濃の小集落・真田郷に幸隆は生まれました。幸隆の真田氏は滋野姓海野氏の流れといわれます。東信濃の佐久・小県両郡には、古くより「滋野三家」と呼ばれる海野、望月、禰津の三氏があり、その海野氏の支流が真田氏でした。

天文10年(1541)、幸隆が29歳の時、真田及び海野一族に一大変事が起こります。甲斐の武田信虎、信濃の村上義清、諏訪頼重連合軍が小県に攻め込んだ海野平の合戦で、これによって幸隆は宗家の海野棟綱とともに故郷を追われ、上州へ亡命しました。ほどなく高齢であった棟綱は没したと思われ、以後幸隆が海野氏宗家を名乗ることになります。

上州で関東管領上杉憲政の臣・長野業正を頼った幸隆は、一度は上州勢の援軍を得て失地回復戦に臨みますが、上州勢に戦意が乏しく頓挫。幸隆は見切りをつけざるを得ませんでした。

「我らが一族の本貫の地を取り戻すためには、あえて仇敵に仕えるも辞さず」

幸隆が選んだのは、かつて自分を所領から追った張本人である武田信虎の息子・晴信に仕える道でした。一族のためにあえて修羅の道へ進むのですが、そこには信濃制圧を狙う武田の力を利用するのが、旧領回復の近道というしたたかな読みがありました。そして一説にこの時、真田氏の旗印を三途の川の渡し賃「六文銭」に改めたともいわれます。

武田に仕えた幸隆は信濃先方衆として軍務にあたりますが、頭角を表わすのは、晴信が村上義清に二度目の大敗を喫した戸石崩れの直後でした。晴信は幸隆に、小県の戸石城を攻略すれば1千貫文の所領を与えると約束していたといわれます。幸隆は巧みな調略で敵方の国人を次々と味方につけ、さらに戸石城の守備兵まで籠絡。また幸隆配下には横谷左近、角七郎兵衛といった忍びがいたとされますが、彼らの活躍もあったのでしょう。天文20年(1551)5月26日、武田軍精鋭の猛攻も跳ね返した戸石城を、幸隆は一夜にしてほとんど無血で攻略してのけました。これにはさしもの晴信も仰天したといいます。その2年後には、宿敵・村上義清を信濃に追い、幸隆はついに旧領回復することを得ました。 

以後も幸隆は、越後長尾氏との川中島の戦いや、西上野進攻戦で活躍。特に永禄6年(1563)、難攻不落を謳われた岩櫃城を、またも調略と謀略で陥落させたことは特筆に値します。これらの活躍で幸隆は吾妻郡代に任じられ、外様ながら武田家における地位を磐石なものとしました。

永禄10年(1567)、病を得た幸隆は家督を長男の信綱に譲りますが、長男・信綱、次男・昌輝、三男・昌幸(武藤喜兵衛)のいずれも武田家中の中堅家臣として成長していました。一度は浪々の身となりながらも、修羅の道をあえて選び、見事に旧領回復を成し遂げた幸隆。その生き様と戦ぶりは、息子や孫たちに継承されていくことになります。

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