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「独行道」~ 宮本武蔵が病床で残した自誓書

2017年05月19日 公開

歴史街道編集部

巌流島の戦い
武蔵、小次郎、巌流島の戦い

 

今日は何の日 正保2年5月19日

日本を代表する剣豪・宮本武蔵が没。

正保2年5月19日(1645年6月13日)、宮本武蔵が没しました。日本を代表する剣豪の一人であり、『五輪書』などの著作や、絵画などでも知られます。巌流島の決闘をはじめ、吉岡一門との戦い、柳生一族への挑戦など、剣豪・宮本武蔵は多くの小説や舞台、映画で描かれてきました。 

武蔵は天正12年(1584)頃、播磨国もしくは美作国に生まれました。父親は当理流の兵法者・新免無二斎(無二之丞)。 武蔵は宮本村の出身なので宮本姓を用いたとされますが、本来の姓は新免です。『五輪書』には、新免武蔵守藤原玄信と記しています。

13歳にして新当流の兵法者に勝ち、その後、小説などでは宇喜多秀家勢に加わって、関ケ原合戦に参加したと描かれますが、父親の無二斎が黒田如水に従っていたという記録もあり、武蔵は父親とともに黒田家の一員として、九州で東軍として戦っていた可能性もあります。

30歳までに66度の試合を行ない、一度も敗れることがなかったという話は有名ですが、結局、巌流島の決闘などで名は馳せたものの、仕官には結びつかず、小笠原家や細川家の客分として過ごしました。晩年は熊本藩主・細川忠利に招かれて熊本で暮らします。

招かれてほどない頃、熊本藩の兵法指南役・氏井弥四郎と、忠利の御前で非公開の御前試合を行ないました。 氏井は新当流や新陰流を極めた達人でしたが、ついに武蔵に打ち込めずに終わります。武蔵は御前でもあり、自らは技をかけようとはしなかったようです。

そして自らの兵法の極意を「兵法三十五箇条」にまとめ、細川忠利に上呈しました。細川忠利は柳生新陰流の奥義を極めていましたが、武蔵の二天一流を大いに認め、自ら門人となって学びます。しかし、ほどなく他界しました。忠利の死を機に、武蔵は熊本を退去することを考えますが、新藩主・光尚に引き止められ、従来通り賓客として滞在することになります。 その後、武蔵は参禅と水墨画に打ち込みました。

寛永20年(1643)、熊本城西方の金峰山の霊巌洞に籠り、生涯の集大成『五輪書』を書き上げます。 そして正保2年5月19日、自らの屋敷で没しました。享年62。

死の数日前に病床で「独行道」と呼ばれる21箇条の自誓の書を残しています。以下、ご紹介します。

一、世々の道をそむく事なし。
一、身にたのしみをたくまず。
一、よろづに依枯(えこ)の心なし。
一、身をあさく思、世をふかく思ふ。
一、一生の間よくしん(欲心)思はず。
一、我事におゐて後悔をせず。
一、善悪に他をねたむ心なし。
一、いづれの道にも、わかれをかなしまず。
一、自他共にうらみかこつ心なし。
一、れんぼ(恋慕)の道思ひよるこゝろなし。
一、物毎にすき(数奇)このむ事なし。
一、私宅におゐてのぞむ心なし。
一、身ひとつに美食をこのまず。
一、末々代物なる古き道具所持せず。
一、わが身にいたり物いみする事なし。
一、兵具は各(格)別、よ(余)の道具たしなまず。
一、道におゐては、死をいとはず思ふ。
一、老身に財宝所領もちゆる心なし。
一、仏神は貴し、仏神をたのまず。
一、身を捨ても名利はすてず。
一、常に兵法の道をはなれず。

iyashi

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