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豪姫~夫婦愛をつらぬいた太閤秀吉秘蔵の姫君

2017年05月23日 公開

歴史街道編集部

豪姫と宇喜多秀家(八丈島)

今日は何の日 寛永11年5月23日

宇喜多秀家室・豪姫が没

寛永11年5月23日(1634年6月18日)、豪姫が亡くなりました。前田利家とまつ夫妻の娘で、羽柴秀吉の養女となり、宇喜多秀家に嫁いだことで知られます。

天正2年(1574)、父・前田利家が伊勢長島一向一揆と戦い、柴田勝家の与力となった年に豪は四女として生まれました。実は豪が生まれる前に利家は、仲の良い羽柴秀吉と、次に生まれてくる子は男でも女でも子のない秀吉夫婦の養子にすると約束していました。そこで豪は出生からほどなく秀吉の養女となり、秀吉・おね夫妻のもとで育てられます。

秀吉は豪を溺愛しました。戦場からも「けなげに候や」「はや飯をまいり候や」と度々手紙を送っており、可愛くて仕方のない様子です。豪は秀吉夫婦の愛情を一身に受けたのでしょう。

天正16年(1588)、15歳になった豪は、2歳年上の岡山城主・宇喜多秀家と結婚します。秀家は岡山城主・宇喜多直家の息子で、直家は秀吉の中国平定に協力しますが、天正9年(1581)に病没したため、翌年、秀家は11歳で家督を継ぎました。本能寺の変後、元服した秀家は秀吉の猶子となって寵愛を受け、秀吉最愛の娘・豪を娶るのです。 秀家・豪夫婦は仲睦まじく、2男2女を儲けますが、結婚後も秀吉の愛情は変わらなかったと見え、文禄2年(1593)におねに宛てた手紙に「男にて候はゞ、関白を持たせ申すべきに(豪が男であれば、関白にしてやるのに)」とか「太閤秘蔵の子にて候まゝ、ねより上の官に致したく(わしの秘蔵っ子なので、おね殿よりさらに高い官位につけてやりたい)」などと記しています。

慶長2年(1597)、豪は病に倒れました。もともと豪はあまり体が強くなかったようですが、病の見立てで「狐が憑いた」らしいと聞いた秀吉は激昂し、なんと稲荷大明神宛に手紙を書くのです。「備前中納言女(豪)に狐が憑いた。なにゆえ魅入ったか、けしからぬことであり、今後二度ととり憑くでない。わしの命に背く場合は、日本中の狐を狩ってしまうぞ」という脅迫文でした。その甲斐あって(?)、幸い豪は快復しています。

しかしそんな秀吉も慶長3年(1598)に病没し、翌年には実父・前田利家も他界しました。世は風雲急を告げ、関ケ原合戦に向かいます。この合戦で豪の夫・秀家は西軍の副総帥となり、一方、豪の実の兄・前田利長は東軍に与しました。豪にすれば、どちらが敗れても辛い思いをすることになります。そして合戦は西軍の敗北、宇喜多家は改易。戦場を脱出した秀家は、薩摩の島津家にしばらく匿われますが、合戦の翌々年に島津も徳川と和睦したことで、秀家は慶長8年(1603)に伏見に護送されました。

しかし島津は和睦の条件として秀家の助命を挙げており、また豪の兄・前田利長の助命嘆願もあって、秀家は死罪を免れ、二人の息子とともに慶長11年(1606)、八丈島に流されます。その際、豪は秀家には家人を、息子たちには乳母を付け、医師も同行させました。そして豪自身は娘二人とともに、実家の前田家に引き取られることになり、加賀金沢に移りました。 その後も豪は、再婚することもなく、2年に一度、金銀、米や食糧、衣類、医薬品などを八丈島に送り続けました。ひたすら夫と息子たちの無事を願ってのことでしょう。

また当時、金沢にいた高山右近の影響で洗礼を受けたともいわれます。あるいはこれも、夫や息子たちの加護を祈るためであったとも思えます。そして寛永11年、夫や息子たちとの再会は叶わぬまま、金沢城鶴の丸において生涯を閉じました。享年61。

しかし、豪が生涯続けた八丈島への仕送りは、豪の死後も前田家が継承し、秀家が84歳で没するまでどころか、なんと明治維新まで、秀家の子孫たちに延々と送り続けられたのです。豪の夫や息子たちへの愛情は、子々孫々受け継がれていったといえるでしょう。

iyashi

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