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沖田総司~新選組副長助勤、凄腕の一番隊組長

2017年05月29日 公開
2022年05月18日 更新

5月30日 This Day in History

新選組

今日は何の日 慶応4年5月30日

新選組の沖田総司没

慶応4年5月30日(1868年7月19日)、新選組の沖田総司が亡くなりました。若くして労咳(結核)を患った、天才的な剣士として知られます。

生年については天保13年(1842)説と天保15年(1844)説の二つがありますが、最近は藤堂平助や斎藤一よりも2歳年上であったとする、後者が主であるようです。ここでは天保13年説にのっとります。

天保13年、白河藩士・沖田勝次郎の長男として、江戸の白河藩邸で生まれました。幼名、宗次郎。総司には2人の姉がいます。4歳の時に父親を亡くし、母親について詳細はわかっていません。沖田家は総司が4歳の時に姉のみつが八王子千人同心の家に生まれた井上林太郎と結婚して、林太郎が家督を継ぎました。姉夫婦が親代わりになって総司を育てるためだったのでしょう。9歳の頃、市谷甲良屋敷にあった天然理心流「試衛館」道場の近藤周助に入門、内弟子となります。やがて道場で近藤周助の養子・勇や土方歳三、井上源三郎、山南敬助、斎藤一らとともに天然理心流を研鑽し、その天稟を発揮し始めます。

12歳の時に白河藩の剣術指南役と試合をして、これを破ったという伝説がありますが、それはともかく、若くして道場の塾頭を務めました。近藤勇らとともによく多摩に出稽古にも出かけたようで、「すぐに怒り、教え方が荒っぽい」と地元の門弟たちからは近藤よりも恐れられたとか。また「体で切れ」が口癖だったようで、おそらく踏み込みの大切さをそう表現したのではと想像します。

文久3年(1863)、試衛館の有志で浪士隊に加わり、上洛した際に22歳。以後、新選組では副長助勤、一番隊組長を務め、常に幹部(組長)の筆頭にその名の上がる存在でした。剣客集団の新選組の中で撃剣師範を務め、元隊士の阿部十郎は剣の腕では永倉、沖田、斎藤の順であるという意味の記録を残しています。三度の突きが一回の動作に見える「三段突き」を得意としたという伝説もありますが、いずれにせよ新選組きっての剣士であることは間違いありません。

黒猫

そんな総司が、いつ頃から労咳を発症したのかははっきりしませんが、よくいわれるのは元治元年(1864)の池田屋事件の折、浪士たちと激闘の最中に喀血し、昏倒したという話です。ただしそんな総司が翌月の禁門の変には出動しており、また隊務に支障の出るほどの容態になるのが慶応3年(1867)頃であることから、実際の発症はもう少し遅かったのではという見方もあるようです。とはいえ死病に罹っていることは早い時期から悟っていたでしょう。

総司は普段は明るく朗らかで、冗談ばかり言い、時間があると壬生寺などの境内で近所の子供たちと遊んでいたといいます。その明るい顔と人を斬る顔の対比をよくドラマなどで興味本位に描きますが、新選組の隊務はあくまで京都の治安維持であり、毎日人を斬っていたわけではありません。むしろ総司はさほど違和感なく、近藤や土方を信じて隊務にあたっていたような気がします。

新選組が江戸に戻り、甲州攻めに行く際には加われず、見舞いに来た近藤の前で泣いたといわれます。その後、容態は悪化し、近藤が新政府軍に処刑されたことも知らされず、近藤の身を案じながら総司は病没しました。享年27。

麻布の菩提寺でおこなわれる「沖田総司忌」には、毎年たくさんの人が訪れます。総司の墓参ができるのは、一年でこの日だけですが、人気は衰えていないようです。

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