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松江豊寿と会津の武士道~板東俘虜収容所に鳴り響いた「第九」

2017年05月31日 公開

歴史街道編集部

鳴門ドイツ館(坂東俘虜収容所)

鳴門市ドイツ館
かつてこの場所には、ドイツ兵を収容した板東俘虜収容所があった。鳴門市ドイツ館では、収容所で過ごしたドイツ兵たちの活動や地域との交流の様子を展示している。

 

今日は何の日 大正7年6月1日

板東俘虜収容所で「第九」がドイツ兵により日本で初めて全曲演奏

大正7年(1918)6月1日、ベートーベンの「第九」が板東俘虜(ふりょ)収容所において、ドイツ兵たちによって日本で初めて全曲演奏されました。ベートーベン「交響曲第九番ニ短調・作品125」。通称「第九」は日本では「歓喜の歌」として知られ、年末によく演奏されています。ところが、それがどのような経緯で日本にもたらされたかについては、あまり知られていないかもしれません。

第一次世界大戦において、日本が同盟国のイギリスの要請に応じて、ドイツ軍の拠点である中国・青島を攻略したのは、大正3年(1914)のことでした。敗れたドイツ軍将兵約6400人が俘虜として日本に送られ、全国6ヵ所の収容所に振り分けられます。そのうちの一つが徳島県の板東俘虜収容所(鳴門市)で、約1000人が入りました。

彼らが収容所の門前に到着すると、所内からドイツの「プロイセン行進曲」が鳴り響き、先着していた俘虜たちが歓声で迎えて、驚かせたといいます。所長・松江豊寿のはからいでした。「彼らも祖国のために戦った勇士である。名誉を傷つけてはならない」。それが松江の信条でした。 

松江豊寿陸軍中佐は明治6年(1873)、会津若松で生まれています。父親は会津藩士で会津戦争を戦い、降伏後は斗南に移住させられ、厳寒と飢えの中で塗炭の苦しみを味わいました。廃藩置県後に会津に戻って松江が生まれますが、松江は父親から、会津藩士が武士の誇りを抱いていかに立派に戦ったか、また斗南の絶望的な生活でいかに必死に生き抜こうとしたかを子供の頃から繰り返し聞かされ、敗者へのむごい仕打ちは「恨み」しか残さないことを知っていました。また会津出身者は陸軍内でも肩身が狭く、「敗者の痛み」を、身をもって味わっていたのです。だからこそ松江はドイツ人俘虜に、会津人と同じ思いをさせまいとします。それは武士道でいう「惻隠の情」そのものでした。

収容所内で松江は、俘虜たちへの暴力を断じて許さず、警備兵に人道的に接することを命じます。また俘虜たちが毎日焼きたてのパンが食べられるように、所内に製パン所を設けたのをはじめ、ビールや煙草も認め、歓迎会などの行事がある時は、就寝時間を2時間遅らせて酒宴を開くことも許しました。さらに俘虜の大半が一般義勇兵で、手に職を持った者が多いと知ると、本職を活かして店舗を開くことを認めます。その結果、所内に家具製造、仕立業、金属加工、理容、アイスクリーム、製本、音楽教授、ケーキやクッキー、ボウリング場、食肉加工所、図書館、印刷所までが並び、印刷所では収容所新聞までが発行されました。俘虜たちは大いに活気づき、また松江に心を開いていきます。

一方、東京の陸軍省は俘虜に寛大な松江を快く思わず、圧力をかけますが、「自分が預かっているのは収容所であって、刑務所ではない」と松江は一歩も譲らず、会津人の気骨を示しました。

やがて俘虜と地元の人々との交流も深まり、楽器演奏などを学んだ日本人の若者の中には、俘虜を師と仰ぐ者も出てきます。そうした中で開かれたのが、俘虜たちによるコンサートでした。「第九」の演奏は並大抵のことではできませんが、俘虜たちは足りない楽器は代用や手作りし、すべて男性合唱に編曲して「第九」全曲を演奏したのです。その「歓びに満ちた調べ」には、ドイツ人たちの感謝と友情の思いが込められていたのでしょう。

なおこの逸話を元に作られたのが、出目昌信監督の映画「バルトの楽園」です。

iyashi

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