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真田昌幸~家康が恐れた信玄譲りの軍略

2017年06月03日 公開
2022年07月22日 更新

6月4日 This Day in History

上田城

今日は何の日 慶長16年6月4日

九度山で真田昌幸が没

慶長16年6月4日(1611年7月13日)、真田昌幸が亡くなりました。徳川家康が畏怖した戦上手で、真田信幸、信繁兄弟の父親としても知られます。

昌幸の死後、徳川幕府と豊臣家が手切れとなり、大坂城に真田が入ったと聞いた家康は「それは親か、子か」と訊き、手にしていた障子戸がガタガタと揺れるほど震えたといわれます。それほど家康が真田父子、とりわけ父親の昌幸を恐れていたことを示すエピソードとして、よく語られるものです。 

天文16年(1547)、真田幸隆(幸綱)の三男に生まれた昌幸は、幼少の頃より武田家に人質として送られ、信玄の側で成長します。武田家は人質を人質として扱わず、武将として必要な教育を十分に施し、むしろ武田の次代を担う大切な人材として育てました。父親や2人の兄も信玄に仕える中、昌幸もまた信玄の采配を間近で見ながら己の軍才を磨くとともに、武田家への忠誠心も育んでいきます。

元亀4年(1573)に信玄が没すると、後継者の勝頼に仕えますが、2年後の長篠合戦の大敗で、武田家は名だたる武将の大半が討死してしまい、昌幸も2人の兄を失いました。昌幸は武藤姓から真田に戻り、主に上州経略で勝頼を支えます。天正6年(1578)の上杉謙信の死に伴う上杉家の御館の乱に介入した勝頼は、上杉家と和睦。これによって武田は同盟を結んでいた北条と敵対します。勝頼の意をうけた昌幸は、北条方の拠点を次々に調略して上野の大半を味方につけ、さらに佐野氏、宇都宮氏、結城氏らとも結んで、天正9年(1581)頃には壮大な北条包囲網を完成させました。

しかしそれが発動する前に戦火は西から上がり、織田軍が怒濤の如く武田領に侵攻を開始。翌天正10年(1582)、武田氏は滅びます。昌幸は勝頼に、自分が持つ岩櫃城に来ることを勧めますが、勝頼は小山田氏の岩殿城を頼り、裏切られて自刃しました。

主家の武田氏が滅び、信州小県から上州沼田にかけての地盤に戻った昌幸が、その「鬼謀」ぶりを発揮するのはここからです。武田が滅んでほどなく、織田信長も本能寺で討たれて、関東の織田勢力は霧消。甲斐・信濃は草刈場となり、北条・徳川・上杉の3強が衝突します。いわゆる「天正壬午の乱」ですが、実はそのキャスティングボートを握ったのは、ほぼ中央に位置する小勢力の昌幸だったのです。

昌幸は最初北条につき、北条勢が信濃に入る手助けをしますが、北条氏直の及び腰を見て、対峙する徳川に鞍替えし、北条勢を駆逐します。そして尼ケ淵に城を築き始め、上杉の脅威を語って徳川にも協力させて急ぎ完成させたのが、上田城でした。ところが家康が北条と和睦する際、上州の真田領を北条に割譲するという背信行為に怒った昌幸は、今度は上杉景勝と結んで家康と敵対。これに応じて家康が送った7000の軍勢を、完膚無きまで破ったのが第一次上田合戦でした。家康にすれば、よもや自分たちが協力して築いた上田城に翻弄されるとは、まさに煮え湯を飲まされる思いだったでしょう。

さらに昌幸は上杉に人質として送っていた次男の信繁を上方の秀吉のもとに送り、秀吉に自領を認めさせるに至るのです。昌幸が、北条や徳川を全く恐れずに手玉にとってしまえたのは、やはり信玄のもとに仕えていた経験が大きかったと思わざるを得ません。信玄と比較すればいずれも小物に見え、呑んでかかっていたのでしょう。特に家康は三方ヶ原で粉砕しているだけに、苦手意識は全くなかったようです。むしろ苦手意識を持ったのは徳川の方で、関ケ原の際の第二次上田合戦でまたも昌幸に翻弄され、さらに昌幸から軍略用兵を学んだ信繁によって、大坂夏の陣では家康本陣が蹂躙されることになります。

昌幸にすれば、「武田が滅んだ今、信玄公の軍略を受け継ぐのは自分である」という強烈な自負を抱いていたはずで、そんな誇りが真田の名を歴史に刻んだようにも思えます。

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