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関西私鉄王・松本重太郎の生き方~われ、晩節を汚さず

2017年06月20日 公開
2019年05月29日 更新

6月20日 This Day in History

松本重太郎

今日は何の日 大正2年6月20日

明治の実業家・松本重太郎が没

大正2年(1913)6月20日、松本重太郎が亡くなりました。その名を知る人は今や少ないかもしれませんが、明治を代表する関西の実業家の一人で、「東の渋沢栄一、西の松本重太郎」「日本の私鉄王」と呼ばれた人物です。しかも、単なる成功譚で終わらないところが、重太郎らしさであり、その生涯は小林薫主演で「われ、晩節を汚さず 新夫婦善哉」というドラマにもなりました。

天保15年(1844)、丹後国竹野郡間人村(現、京都府京丹後市丹後町間人)の庄屋に生まれた重太郎は、僅か10歳で家を出て、京都の呉服商に丁稚奉公にあがります。3年後には、兄がかつて勤めていた大坂の有力呉服商綿屋に移り、ここで12年間勤めながら商売の勘を磨きました。重太郎が独立したのは、維新後間もなくの24歳の頃といわれます。最初は洋反物を行商しましたが、明治3年(1870)には「丹重」という屋号の店を大阪に構えます。この店を出す時に大和屋半兵衛の支援を受け、自分一人の力だけでは何事も成功できないということを痛感しました。

その後、明治10年(1877)の西南戦争に際し、軍用ラシャの買占めで大当たりします。しかし重太郎はこれをまぐれ当たりとし、「勝って兜の緒を締めよ」と店員たちに訓示し、自らも戒めました。 洋反物で成功した重太郎は、その翌年、大阪に第百三十銀行を設立します。かつて自分は独立したいと願った時、大和屋の支援を得て実現したが、誰もがそうした支援を得られるわけではない。それならば商売を志す者を支援する銀行をつくりたい、という思いからであったといわれます。銀行の都合より客の都合を優先し、徹底して客に奉仕した第百三十銀行はその後、いくつもの銀行を合併して全国に15店舗を持つ大銀行となりました。さらに洋反物と縁のある事業として、紡績業にも踏み込みます。明治15年(1882)の大阪紡績(現・東洋紡績)の設立で、東京の渋沢栄一、大倉喜八郎らと、重太郎、藤田伝三郎ら大阪の実業家の計画を一つにしたものでした。

そして、重太郎を語る際に外せないのが鉄道です。すでに横浜・新橋間の鉄道が開通、急行列車が45分で結んで、大いに利用客を増やしていました。重太郎はこの便利さを関西でも実現したいと考え、藤田伝三郎らとともに明治17年(1884)、大阪・堺を結ぶ阪堺鉄道を立ち上げ、これが事実上の日本初の私鉄でした。阪堺鉄道は利用客が多く、高収益を上げ、重太郎はさらに明治28年(1895)、堺・和歌山を結ぶ南海鉄道を設立、社長となります。3年後に南海鉄道は阪堺鉄道を吸収合併し、ここに難波・和歌山間が鉄道で結ばれました。

一方、明治19年(1886)には重太郎らが発起人になって、神戸から西に向かう山陽鉄道を設立していましたが、神戸・三原間を敷設したところで不況による経営不振で、社長が辞任。やむなく社長に就いた重太郎は、「断乎、線路を下関まで延ばすべき」とします。鉄道敷設は国力を強化し、商工業発展の基礎となるという信念からでした。社内の反対もあり、とりあえず広島までの敷設が決まりますが、これが日清戦争での軍事輸送に絶大な威力を発揮します。その功で重太郎は明治天皇のお召し列車に陪乗し、お褒めの言葉を賜りました。

しかし、そんな重太郎を待ち構えていたのは、明治34年(1901)からの恐慌です。関係企業の営業不振が第百三十銀行に悪影響を与え、融資の焦げ付きが多数生じ、ついに銀行は休業に追い込まれました。事態を重く見た政府は、その整理を安田善次郎に委ねますが、重太郎は銀行破綻の責任をとって全財産を出してその弁済にあて、関係企業一切から退き、その後は妻と二人で借家暮らしを送ります。時に重太郎61歳。

日本でも指折りの富豪が、一夜にして全財産を未練なく手放すその潔さは、なかなかできることではありません。しかしそもそも重太郎にとっては自分の金儲けよりも、その事業が世の中の役に立つかどうかが大切でした。その志があって、はじめてこのように身を処すことができたのかもしれません。大正2年(1913)没。享年70。

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