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京都見廻組・今井信郎と龍馬暗殺

2017年06月24日 公開

歴史街道編集部

今日は何の日 大正7年6月25日

元京都見廻組の今井信郎が没

大正7年(1918)6月25日、元京都見廻組の今井信郎が他界しました。一説に坂本龍馬を斬った男ともいわれます。

天保12年(1841)、江戸本郷湯島天神下の幕臣の家に生まれた今井信郎は、安政5年(1858)、18歳で直心影流・榊原謙吉の道場に入門。僅か2年で免許皆伝を受ける天稟を発揮し、幕府の武芸講習所である講武所の師範代を拝命しています。その後、上野国岩鼻陣屋で剣術教授を務めていたところ、慶応3年(1867)5月に江戸に呼び戻され、京都見廻組への編入を申し渡されました。今井が上洛して見廻組の一員となったのは同年10月のことで、見廻組肝煎という幹部としての待遇でした。

それからおよそ1ヵ月後の11月15日、坂本龍馬、中岡慎太郎が京都近江屋において何者かに殺害されました。当初、新選組が疑われましたが、戊辰戦争後、今井自身が京都見廻組による襲撃であったことを明かしています。今井の供述では、今井は表の見張り役を務め、手を下したのは見廻組与頭の佐々木只三郎と、渡辺吉太郎、高橋安太郎、桂早之助らであったとしていますが、いずれも鳥羽・伏見の戦いで戦死が確認されている者たちで、今井は累が他に及ばないように配慮し、意識的に死者の名前を挙げたのではないかといわれます。つまり実行犯は彼らではなく、今井と渡辺篤、世良敏郎(いずれも明治初期存命)であり、検分役が佐々木であったろうと思われるのです。

渡辺篤が死の直前に子孫に告白した内容では、近江屋の二階には坂本・中岡だけでなく、3人の書生がいて、一人は明り取りから逃げ、一人は机の下に頭を入れて震えていたといいます。一人が斬られた下僕の藤吉だとすると、残りの2人は通説では暗殺直前に近江屋を出たとされている岡本健三郎と菊屋の峰吉の可能性が高く、震えていたのが峰吉ならば、彼は一部始終を見ていた可能性があるのです。

当時の坂本龍馬は一年前の伏見寺田屋における捕り方殺害の下手人であり、見廻組の襲撃は警察行為であって暗殺ではないとする見方もありますが、それならばなぜ、見廻組は坂本を討ったことを公表しなかったのか、疑問が残ります。

鳥羽・伏見の戦いで敗れ、主要な隊士を失った京都見廻組は事実上瓦解。今井はその後、古屋佐久左衛門が組織した衝鉾隊に加わり、副隊長を務めて各地を転戦、箱館戦争終結で降伏しました。先ほどの龍馬暗殺に関する供述は、明治3年(1870)、新政府の兵部・刑部両省での取り調べにおけるものですが、2年後、今井は特赦により釈放されます。口ぞえをしたのは西郷隆盛であったとされますが、なぜ西郷だったのかは不明です。

その後、今井は静岡県初倉村(現、静岡県島田市)で帰農し、やがて村議や村長を務める一方、キリスト教に帰依して、社会活動にも従事しました。 今井信郎については、龍馬の暗殺者というレッテルですべてを見られがちですが、彼が上洛して見廻組に加入したのは龍馬暗殺の1ヵ月前であり、当時27歳の若者にすれば、事情もよく飲み込めぬまま、任務をこなしたに過ぎなかったのかもしれません。彼のその後の行動は幕臣として筋を通しており、龍馬暗殺に関わったことは、今井にとって恥ずべきものではなかったにせよ、不運な出来事であったというべきなのかもしれません。

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