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働くとは? 鈴木正三の思想「労働即仏道」

2017年06月25日 公開
2019年05月29日 更新

6月25日 This Day in History

今日は何の日 明暦元年6月25日

日本資本主義の先駆・鈴木正三が没

明暦元年6月25日(1655年7月28日)、鈴木正三(しょうさん)が没しました。武士から曹洞宗の僧に転じ、日々の職業生活を大切にすることが仏の道に通じると説いた思想で知られます。

武士を捨てて仏道に入る

天正7年(1579)、三河国加茂郡足助庄の則定城主・鈴木重次の長男として、正三は生まれました。名は重三とも。父の代から徳川家に従っており、正三の初陣は関ケ原合戦の折、本多佐渡守正信の配下として徳川秀忠を支えて戦った信州上田城攻めでした。その後、大坂冬、夏の陣でも武功を挙げ、200石の旗本となります。一方で正三は、戦場経験から生死について深く考察し、勤めの合間に参禅修行を行ないました。

元和5年(1619)、大坂城に勤番していた際、同僚の儒学者が「仏教は聖人の教えに反する」というのに反論、翌年、42歳で遁世、出家します。旗本の出家は禁じられていましたが、将軍秀忠の温情で正三に咎めはありませんでした。 その後、各地で修行を重ねた正三は、元和9年(1623)頃には三河に戻り、石平山恩真寺を創建します。

島原の乱と鈴木正三

寛永14年(1637)、島原の乱に弟の重成が従軍。戦後、天草の初代代官に任ぜられた重成の頼みで正三は天草へ赴き、諸寺院を復興する一方、荒廃した村の建て直しに尽力します。そもそも島原の乱は、キリシタン弾圧と重税に原因がありました。正三は『破切支丹』を著して仏教の布教に努め、弟の重成は幕府に租税軽減の嘆願を繰り返します。しかし幕府は軽減を認めず、責任を感じた重成は切腹しました。

二代目代官には重成の子・重辰(しげとき)が着任、実は重辰は正三の実子です。重辰は養父・重成の遺志を継いで租税軽減を幕府に働きかけ、正三もこれを補佐しました。そして重成の切腹から7年後、ようやく幕府は訴えを認めます。これに地元の天草の人々は大いに感謝し、今でも鈴木神社として、重成、正三、重辰の三人が祀られているほどです。

鈴木正三の労働観

正三の思想を語るものとして、次の問答が知られています。ある農民が正三に問いかけました。
「私は仏道修行の大切さは承知していますが、田畑の仕事が忙しくてとても修行している暇がありません。どうしたらよいでしょうか」

正三は応えます
「農業にいそしむことがすなわち仏道修行です。信心とは暇な時にやって、成仏を願うものではありません。また、そもそも来世で楽することを願っているようでは、成仏はおぼつかないでしょう。煩悩の多いわが身を敵と見立てて畑をすき返し、煩悩を刈り取る心で耕作するのです。辛苦の努力をし、心身を責めている時には、煩悩が生まれる余裕はありません。こうして常に仏道修行として農業にいそしめば、どうして改めて仏道修行する必要があるでしょうか」

正三のこの考え方は、農業だけでなく、どんな職業においても同じである(職業に貴賤はない)とし、世俗的生活のすべてが仏道修行であるという結論に至ります。いわば「労働即仏道」という思想で、日々の仕事の中に宗教性を持たせることで、人々に「生き甲斐=成仏」を与えようとしたのだといわれます。そしてこの思想は、日本資本主義の精神の先駆ともいわれるのです。

それぞれの職分、立場において全力を果たすことが、生き甲斐につながり、仏道修行になるという考え方は、現代でも納得できるものがあるように思います。正三は明暦元年に世を去りました。享年77。その思想は後年、石田梅岩などに受け継がれていきます。

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