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壬申の乱~大海人皇子はなぜ、大友皇子と戦ったのか

2017年07月02日 公開

歴史街道編集部

近江大津宮錦織遺跡
近江大津宮錦織遺跡(滋賀県大津市)
 

今日は何の日 天武天皇元年7月2日

大海人皇子が進軍開始。壬申の乱へ

天武天皇元年7月2日(672年8月3日)、美濃に入った大海人皇子が、東国の軍勢を二手に分けて、近江方面と大和方面に進発させました。壬申の乱です。

大海人皇子は近江朝の天智天皇(中大兄皇子)の弟で、皇太子(異説あり)でした。ところが天智天皇10年(671)の秋、天智天皇は自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけ、後継者とする動きを見せます。やがて病が重くなった天智天皇は、大海人皇子を病床に呼び、譲位を申し出ました。しかし大海人皇子はその場で断り、大友皇子を推挙した上で、自身は出家して吉野に隠棲します。天智天皇の申し出の裏に、大友皇子を後継者とするために自分を嵌めようとする罠があることを悟ったからでした。

吉野に逃れた大海人皇子を、近江朝の人々は「虎に羽をつけて放ったようなものだ」と評したといいますから、もし大海人皇子が譲位を受け入れていたら、おそらく謀叛の濡れ衣を着せられて、捕らえられていたのでしょう。

同年12月に天智天皇が崩御すると、大海人皇子と大友皇子は一触即発となります。時に大海人皇子41歳、大友皇子24歳。ほどなく大友側の不審な動きを察知した大海人皇子は、翌天武天皇元年6月に吉野から東に向かって遁走、つき従うのは僅かな供だけでした。その直前、大海人皇子は配下に、先行して美濃の不破の関を塞ぐよう命じています。そして吉野から伊勢に抜け、美濃に至る過程で、東海道・東山道の諸勢力に使者を派遣、これに多数が応じました。

一方、大友皇子は筑紫、吉備、東国に援軍要請を出しますが、西国は統括する者を動かせず、東国は大海人皇子方の軍勢に阻まれ、ことごとく失敗します。 7月2日、二方面に進軍を開始した大海人皇子軍は、大和方面で近江朝軍を撃退。また近江方面では7月7日、息長(おきなが)の横河で近江朝軍を破り、以後も連勝を重ねます。そして7月22日、瀬田の戦いで近江朝軍は大敗を喫し、翌日、大友皇子は自害。ここに壬申の乱は終結し、近江朝は滅亡し、翌天武天皇2年(673)2月、大海人皇子は都を飛鳥に戻し、即位しました。天武天皇です。 

壬申の乱はもちろん皇位継承の争いですが、その背景に天智天皇の強引な改革への不満、身分の低い母親に生ませた大友皇子に皇位を継がせようとすることへの反発、さらに白村江の敗戦から生じた天智天皇の遷都や国防施設の築造といった負担に対する、豪族や民衆の離反があったといわれます。天武天皇はこうした不満や乱れを解消するために、豪族たちの合議ではなく天皇自ら親しく政治を行ない、一種の独裁で乗り切ろうとしていきます。その結果、中央集権体制は天智天皇時代よりも、一層強まることになります。

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