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上月城の戦い~尼子勝久、山中鹿助の無念。お家再興ならず

2017年07月03日 公開

歴史街道編集部

上月城址に建つ尼子勝久・山中鹿之介の碑
上月城址に建つ尼子勝久・山中鹿之介の碑(岡山県佐用町)
 

今日は何の日 天正6年7月3日

播磨国上月城が落城し、尼子勝久が自刃

天正6年7月3日(1578年8月6日)、播磨国上月城が落城し、尼子勝久が自刃しました。事実上の尼子氏の滅亡として知られます。

前年の天正5年(1577)秋、尼子家再興を目指す尼子勝久、山中鹿介主従は、羽柴秀吉の麾下に入り、宇喜多直家の属城である上月城を攻略、出雲回復のための新たな一歩を印しました。しかし天正6年3月、播磨三木城の別所長治が織田方から毛利方に鞍替えすると、その周辺の豪族たちもみな別所氏に従い、中国戦線の羽柴秀吉は窮地に陥ります。この機に、毛利の小早川隆景、吉川元春が兵を挙げ、さらに毛利本家の輝元、さらに宇喜多直家も加わって、合計6万にも及ぶ軍勢が上月城攻略に出陣しました。

対する上月城内の尼子勢は1000足らず。 驚いた秀吉は、安土の信長に救援を要請、信長は直ちに嫡男・信忠に1万を与えて播磨に送ります。 到着した信忠は秀吉に半数の5000を与え、秀吉は1万の軍容で上月城救援に向かいますが、いかんせん6万を号する敵では、手が出せません。 困惑した秀吉は、これを打開するには信長率いる大軍の出馬を請うしかないと考え、単身、信長に謁見すべく安土に走ります。

一方、数十倍の軍勢で囲む毛利軍は、宇喜多勢を先鋒として上月城を攻めますが、山中鹿介が巧みに指揮して、その都度撃退。 宇喜多勢も無理攻めをやめて囲むだけにしますが、城内の食糧や水は日に日に不足し、籠城戦は厳しいものになっていきました。 山中鹿介も尼子勝久も、苦境に耐えれば織田の大軍が救援にくるはずと信じますが、安土にて秀吉は信長から非情な命令を受けます。

「三木城を落とすことが先決じゃ。上月城は見捨てよ」

肩を落とし、播磨に戻った秀吉は、上月城付近で毛利と対峙していた援軍を撤退させました。こうなると城の士気は大いに低下し、夜陰に紛れて城から逃げる兵が続出します。気がつけば、城兵は300にまで減っていました。それでも山中鹿介は諦めず、攻め寄せる宇喜多勢相手に槍を振るって奮戦しますが、当然ながら形勢を変えることはできません。この様子を見た尼子勝久は、決断します。

「もはやこれまで。鹿介よ、わしが腹を切るので、降伏して城兵の命を助けよ」

尼子勝久は、尼子晴久に粛清された新宮党・尼子誠久の5男です。尼子氏の最盛期を築いた尼子経久の曾孫にあたりますが、出家して京都・東福寺の僧となっていました。 永禄9年(1566)に尼子氏が毛利元就の軍門に降ると、山中鹿介は僧籍にあった勝久を説得して還俗させ、勝久を旗頭にして尼子家の再興を図ります。一度は隠岐から出雲に入り、尼子旧臣を糾合して勢力を伸ばし、月山富田城奪還を窺いますが、毛利軍に敗れ、次に因幡の山名豊国と結んで因幡から出雲を窺いますが、これも失敗。やむなく中国に進出してきた織田氏と結び、羽柴秀吉の配下となって上月城を攻略したという経緯がありました。

鹿介は勝久の切腹の供をすることを願い出ますが、勝久は「尼子の再興をさらに試みよ」と、あくまで尼子再興を目指せと命じます。勝久、享年26。毛利方の吉川元春は、勝久の死をもって城兵の助命を約束しましたが、鹿介は捕らわれの身となりました。 そして護送される途中、備中高梁川のほとりの阿井ノ渡しで、志半ばで毛利方に斬殺されます。享年34。

しかし、鹿介亡き後、娘婿の亀井茲矩(これのり)がその遺志を継承し、秀吉の下で尼子旧臣を糾合して毛利と戦い続け、因幡鹿野城主となっています。

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