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南雲忠一の自決~日本海軍は人事で負けた?

2017年07月05日 公開

歴史街道編集部

ミッドウェー島
北太平洋のハワイ諸島北西・ミッドウェイ島
 

今日は何の日 昭和19年7月6日

南雲忠一がサイパンの司令部で自決

昭和19年(1944)7月6日、南雲忠一がサイパンの司令部において自決しました。海軍大将で真珠湾攻撃時の第一航空艦隊司令長官として知られます。 その空母を基幹とする艦隊は南雲機動部隊と呼ばれ無敵を謳われましたが、ミッドウェーの大敗で愚将とも評されます。果たして実像はどうであったのでしょうか。

水雷のプロだった南雲忠一

南雲は明治20年、旧米沢藩士の南雲周蔵の息子として、山形県米沢市信夫町に生まれました。6人兄弟の末子です。日本海海戦が行なわれた明治38年(1905)、18歳で海軍兵学校36期に入校。明治41年(1908)、兵学校を191人中、7番の成績で卒業しました。 大正9年(1920)、海軍大学校甲種(優等)卒。主に水雷畑を歩みます。艦隊派(軍縮条約反対派)の一人であり、ワシントン条約廃棄の上申書作成では先頭に立ちました。

昭和10年(1935)11月、第一水雷戦隊司令官、昭和12年(1937)年11月、海軍水雷学校校長、昭和15年(1940)11月、海軍大学校長などを歴任。指揮官としては猛将タイプで、水雷戦術においては第一人者と目されていました。一方で、ロンドン海軍軍縮条約に反対する艦隊派として、対立する条約派の井上成美を恫喝したこともあったといいます。酒の上での失敗もありましたが、軍人としては「大佐時代から第一水雷戦隊司令官の頃は満点を与えられる軍人だった」と淵田美津雄は評しました。

そんな南雲は昭和16年(1941)に第一航空艦隊司令長官に任ぜられます。すなわち空母を基幹とする機動部隊であり、水雷の第一人者にとっては全くの畑違いでした。この人事は吉田海軍大臣と山本五十六連合艦隊司令長官によって決められたといいます。南雲が選ばれた主な理由は、海軍内の年功序列(ハンモックナンバー)でした。航空であれば、南雲の1期下の37期に小澤治三郎、40期には山口多聞、大西瀧治郎らがいましたが、期が上であるという理由で、航空指揮の経験のない南雲が選ばれたのです。南雲にとっても、これは嬉しくない異動であったでしょう。しかも異動早々、南雲が聞かされた作戦計画とは、航空攻撃によって真珠湾の敵艦隊を叩くという、奇策ともいうべきものでした。山本長官が発案し、黒島亀人連合艦隊参謀らが練り上げたシナリオですが、あまりにも投機的であり、南雲が二の足を踏むのも当然でした。そんな南雲の補佐役として、草鹿龍之介が参謀長となりますが、航空作戦の実質的な判断は航空参謀の源田実に任されるかたちとなり、南雲機動部隊は「源田艦隊」と陰口を叩かれることになります。

南雲機動部隊、真珠湾からミッドウェーへ

昭和16年12月8日、真珠湾奇襲成功。外務省の不手際で、奇襲攻撃は「騙し討ち」と謗られることになりますが、それは南雲の預かり知らぬこと。6隻の空母による史上初の大がかりな航空攻撃で、真珠湾の戦艦部隊をほぼ壊滅させることに成功しました。惜しむらくは、第2撃をかけて基地の重油タンク、及び工廠施設を破壊しておけば、真珠湾の基地機能は当分失われ、米海軍の行動力を著しく低減させたことでしょう。しかし、敵空母不在の情報が南雲に、反撃される危険のあるハワイ近海から早々に脱出することを選ばせました。

南雲機動部隊はその後もジャワ、ニューギニア、インド洋などを転戦、技量抜群の搭乗員らによる雷撃、急降下爆撃の精度は当時世界最高で、無敵を謳われることになります。南雲も連勝続きの中、太平洋の制空権を確立することに成功します。しかし、転機となったのが、真珠湾から半年余り後のミッドウェー海戦でした。疲労回復も十分でないまま、4隻の空母を基幹として出撃した南雲機動部隊は、ミッドウェー島攻撃から、敵機動部隊攻撃への兵装転換の虚を衝かれ、虎の子の全空母と、山口多聞第二航空艦隊司令官を失います。この時、炎上した旗艦赤城から軽巡洋艦長良に移乗した南雲は、水雷戦隊を率いて敵空母に夜戦を仕掛けることに並々ならぬ意欲を示しました。やはり南雲には水雷戦隊を指揮させるべきであったように思われます。

帰還した南雲長官と草鹿参謀長に、山本長官は責任を問わず、新設した機動部隊(第三艦隊)の司令長官と参謀長に、そのままスライドさせました。改めて武功をたてて、ミッドウェーの名誉挽回を図れということでしょうか。 第三艦隊は第二次ソロモン海戦、及び南太平洋海戦で一定の戦果を挙げ、昭和17年11月、南雲は佐世保鎮守府司令長官に異動しました。その後、戦局は日に日に厳しくなり、昭和19年(1944)3月、南雲は中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパンに赴きます。艦隊司令長官といっても船はなく、地上基地に詰め、航空部隊が戦力でした。南雲は家族に、「今度は帰れない」と告げています。戦況から見て、展開がわかっていたのでしょう。 唯一の望みは、日本海軍が最終決戦というべきマリアナ沖海戦で勝利することでしたが、小澤司令長官率いる機動艦隊は空母3隻を失う大敗を喫し、機動部隊は実質的に壊滅。サイパンは敵の猛攻にさらされることになります。

昭和の日本海軍は人事で負けた?

20日間に及ぶ守備隊の死闘の末、部隊はほぼ全滅し、昭和19年7月6日、南雲はサイパンの司令部において自決しました。享年57。「昭和の日本海軍は人事で負けた」といわれますが、それは一面の真理であるように感じられます。南雲が愚将であったという前に、適材適所を実現する組織であったかという点が問題にされるべきでしょう。 これは現在の組織においてもいえることですが、平時と戦時とでは、人事のあり方も変わらなければならないはずです。誰も責任を負わないかたちで事務的・機械的に配置する人事では、勝てる組織は生まれないのかもしれません。東郷を司令長官に抜擢した、山本権兵衛を思い浮かべてしまいます。

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