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森鴎外、その巨大な足跡

2017年07月09日 公開
2019年07月02日 更新

7月9日 This Day in History

森鴎外

今日は何の日 大正11年7月9日

文豪・森鴎外が没

大正11年(1922)7月9日、森鴎外が亡くなりました。明治の文豪で陸軍軍医総監としても知られます。

鴎外は文久2年(1862)1月19日、津和野藩典医の長男として生まれました。本名は森林太郎。明治5年(1872)に上京し、明治14年(1881)に19歳で東京大学医学部を卒業。同年12月に陸軍に入り、明治17年(1884)の23歳の時、衛生学研究のため陸軍省派遣留学生としてドイツに留学します。ベルリンでは北里柴三郎とともに細菌学の権威コッホに会いに行き、また後年『舞姫』のモデルとなるドイツ人女性ヴィーゲルトとも出会いました。

明治21年(1888)の秋、ドイツから帰国。翌年、訳詩集『於母影』を発表、その原稿料をもとに評論誌「しがらみ草子」を創刊し、さらに明治23年(1890)に『舞姫』を発表するなど、明治の文壇をリードしました。特に日本人と外国人女性の恋愛を描く『舞姫』は、当時の人々を驚かせたといわれます。

明治25年(1892)には団子坂上の家に転居し、2階に増築した書斎を「観潮楼」と名付けました。明治27年(1894)に日清戦争が勃発すると、鴎外は第二軍兵站医学部長として出征。しかし、兵士が脚気で次々と倒れる中、鴎外は東京大学が唱える脚気病原菌説を支持して、経験則で知られていた麦食を認めなかったため、3000人近い病死者を出してしまいます。以後も東大はその主張を変えなかったため、10年後の日露戦争でも悲劇が繰り返されました。

森鴎外

日清戦争終結後の明治29年(1896)、「めさまし草」を創刊。誌上で幸田露伴らとともに、樋口一葉を絶賛しました。しかし3年後の明治32年(1899)、小倉の第12師団医学部長に任命され、小倉に赴任することになります。鴎外はこれを左遷と受け取り(実際は必ずしもそうではなかったようですが)、一時は辞職まで考えました。小倉時代の3年間は文筆活動も振るわなかったようですが、この時代に鴎外の性格の角がとれたともいわれます。

明治35年(1902)、第1師団軍医部長に補されて帰京。2年後に日露戦争が勃発すると、第2軍軍医部長として出征しました。日露戦争後の明治40年(1907)、軍医として最高位の陸軍軍医総監となり(中将に相当)、陸軍省医務局長に就任。その一方で、与謝野晶子、伊藤左千夫、佐佐木信綱らとともに観潮楼歌会を始め、歌壇の革新に一石を投じます。また明治42年(1909)に「スバル」が創刊されると、創作活動を再開。『半日』『青年』『雁』『ヰタ・セクスアリス』などを次々と発表します。ちなみに『ヰタ・セクスアリス』は当初、猥褻と誤解され発禁処分を受けました。

大正元年(1912)、殉死した乃木希典の検死に立ち会って衝撃を受け、歴史小説『興津弥五右衛門の遺書』をはじめ、『大塩平八郎』『阿部一族』『堺事件』などを発表します。大正5年(1916)には東京日日新聞に『渋江抽斎』次いで『伊澤蘭軒』を連載、これらは当初、不評でした。

同年、54歳で予備役に編入。6年後の大正11年、病没しました。享年60。 脚気問題など、医学研究の面では病原菌説を疑問視していた北里柴三郎らに及びませんが、陸軍軍医の職務を果たし、軍医総監という最高位に上り詰める一方で、明治の文壇に巨大な足跡を残したその仕事ぶりは、特異かつ傑出した才能というべきなのでしょう。

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