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アッツ島玉砕の悲劇が導いた、キスカ島撤退の奇跡

2017年07月14日 公開
2022年08月25日 更新

 

「断乎反撃せよ!」知られざる戦記

「最後まで善戦敢闘し、武士道に殉じる」

「パーフェクト・ゲーム」。アメリカ軍がそう言って驚嘆した日本陸海軍の作戦をご存じでしょうか。昭和18年(1943)7月のアリューシャン列島キスカ島守備隊5,200人の全員脱出劇です。

しかしこの奇跡的な成功は、その約2ヵ月前の同じアリューシャン列島アッツ島における、2,600人の守備隊玉砕の悲劇があったからこそといえるものでした。

昭和17年(1942)6月8日、日本軍はアメリカ領のアリューシャン列島アッツ島、キスカ島に上陸、占領します。目的はミッドウェー作戦の陽動と日本本土空襲の阻止、さらにアメリカとソ連の遮断の意味があったといわれます。

しかしミッドウェー海戦後、日米の主戦場はガダルカナル島をはじめとする南方に移りました。日本軍の主力もそちらに向けられたため、北の2島の守備隊は取り残されることになり、さらに昭和18年に入ると、アメリカ軍が本格的な反攻を始めるのです。

同18年2月、大本営は樋口季一郎〈ひぐちきいちろう〉陸軍中将麾下の北方軍にアッツ島、キスカ島の防備を任じ、アッツ島守備隊の隊長(第二地区隊長)には山崎保代〈やまさきやすよ〉大佐が就きました。山崎は家族に惜別の手紙を残し、4月18日、アッツ島に赴任します。

樋口季一郎
写真:樋口季一郎

それから約1ヵ月後の5月12日、アメリカ軍は強力な艦隊に護衛された約1万1,000の部隊でアッツ島に上陸を開始。山崎が指揮する守備隊の4倍以上の規模でした。

守備隊はまず水際で迎撃しますが、圧倒的な兵力差に歯が立たず、敵を山間部に誘い込んで徹底抗戦することにします。

敵上陸の報せを受けた北方軍司令官の樋口季一郎は、約5,000の増援部隊を逆上陸させることにし、山崎を激励する電文を送りました。ところが…。

大本営は「アッツ島の放棄、キスカ島の撤収」を樋口に命じました。アッツ島の将兵は、見殺しにされたのです。命令を受けた樋口は怒りと悔しさに号泣したと伝わります。

樋口は断腸の思いでアッツ島の山崎に、「敵を討ち、最期の時に至れば潔く玉砕せよ」と伝えました。

樋口の電文を受けた山崎はすべてを理解し、泣き言は一切言わず、「国軍の苦しき立場は了承した。我が軍は最後まで善戦奮闘し、武士道に殉じる」と返します。

アッツ島守備隊の奮戦は凄まじく、3日で占領できるだろうというアメリカ軍の読みは大いに狂い、戦闘は実に19日間に及びました。最後は指揮官の山崎自ら先頭に立って斬り込み、戦死します。

日本軍の抗戦に約1,800人の死傷者を出したアメリカ軍は、次のキスカ島攻略に慎重になり、来攻は大いに遅れることになるのです。

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