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義姫~伊達政宗の生母はどんな女性だったのか

2017年07月17日 公開

歴史街道編集部

戦国姫

今日は何の日 元和9年7月17日

伊達政宗の生母・義姫が没

元和9年7月17日(1623年8月13日)、義姫(保春院)が没しました。伊達輝宗の正室で、最上義光の妹、伊達政宗の生母として知られます。

義姫は天文17年(1548)、出羽国山形城で最上義守の娘に生まれました(生年は異説あり)。最上義光の2歳下の妹になります。義光とは仲の良い兄妹だったようです。

永禄7年(1564)頃、最上氏と対立する米沢城主・伊達輝宗に嫁ぎます。永禄10年(1567)に嫡男の政宗を生み、その後、弟の小次郎を生みました。 義姫は相当気丈な性格で、行動力もあったことを示すエピソードの多い人物です。

天正6年(1578)に夫の輝宗が上山満兼と結んで最上義光を攻めた折には、駕籠に乗って夫の陣中に赴き、「なにゆえ兄弟喧嘩をなさるのか」と詰め寄って、撤退させています。

天正12年(1584)、嫡男の政宗が家督を継ぎ、翌年、輝宗が二本松義継に拉致され、不慮の死を遂げました。家督を継いだ政宗には、幼少よりあまり愛情を注がなかったともいわれる義姫ですが、政宗が勢力拡大にあたって、最上氏の縁戚を攻めるようになると、ますます気持ちは離れたのでしょうか。 勢力を拡大する政宗に対し、伯父にあたる最上義光も警戒感を強めていきます。

天正16年(1588)、政宗が最上・大崎氏と対立し、さらに佐竹氏、蘆名氏とも対峙する事態となります。いわゆる大崎合戦ですが、この時、義姫は輿に乗って戦場に乗り込み、両軍の間に自分の輿を据えて、最上と伊達をとりなして、ついに和睦に至らせました。ある意味、並みの戦国武将以上の度胸と斡旋手腕を持っていたといえるのかもしれません。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しようとする政宗に対し、義姫は毒入りの膳を政宗に与えたといわれます。この事件の裏に陰謀を察した政宗は、弟の小次郎を討ったとされますが、事件の真相はいまだ定かでないのが現状です。むしろこの事件は、小田原参陣を前に、政宗自身が家中の小次郎擁立派を一掃するために仕組んだものではなかったかという見方もあります。というのも、この事件の後に、政宗と義姫が何事もなかったかのように、親子の間で手紙を交わしており、朝鮮出兵でかの地に渡った政宗が、義姫のために進物を探したりもしているからです。もっとも政宗が朝鮮で進物を探した翌年の文禄3年(1594)、義姫は突如出奔して、最上家の山形に戻りました。理由は今のところ不明です。4年前の小次郎の手討ちと関係があると考えるべきかもしれません。

慶長5年(1600)、関ケ原合戦。この時、東軍の最上義光は西軍の会津の上杉氏の侵攻を受けました。直江兼続の軍勢は最上方の城を次々と抜き、長谷堂城を囲みます。この時、最上義光は同じ東軍の政宗に援軍を請いますが、義姫もまた政宗に手紙を送り、窮状を報せました。この時、政宗は上杉方の白石城を攻めていましたが、留守政景を主将とする一軍を山形に派遣、これによって最上勢は頽勢挽回に成功しています。

慶長19年(1614)に最上義光が没すると、その後の家中の内紛で元和8年(1622)に最上氏は改易の憂き目に遭いました。行き場を失った義姫は政宗を頼り、仙台城に赴きます。28年ぶりの息子との再会でした。

晩年の義姫は足が不自由で目も悪かったといいます。しかし、江戸にいる政宗の正妻・愛姫に手製の下げ袋を贈ったりもしています。義姫が政宗と仙台で一緒に暮らしたのは10ヵ月でした。元和9年7月17日没。享年76。政宗は自らの隠居城・若林城の近くに、母親の菩提を弔うために保春院を建立しています。

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