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鳥居元忠は三河武士の鑑~伏見城での壮絶な最期

2017年08月01日 公開

歴史街道編集部

伏見桃山城
伏見桃山城(模擬天守)
 

今日は何の日 慶長5年8月1日

伏見落城。守将の鳥居元忠が討死

慶長5年8月1日(1600年9月8日)、伏見城が落城し、守将の鳥居元忠が討死しました。元忠は徳川家康が人質だった頃からの側近で、無二の忠臣として知られます。

元忠は天文8年(1539)、三河で鳥居忠吉の3男に生まれました。通称、彦右衛門尉。徳川家康より3歳年上です。元忠は家康が竹千代と名乗っていた頃から近侍し、家康が今川家の人質になった際も、つき従っていました。その後、兄の討死のため、元亀3年(1572)、父が死ぬと34歳で家督を継いでいます。元忠は常に家康の側にあり、寺部城攻めをはじめ、姉川の合戦、三方ケ原合戦で活躍。武田方の諏訪原城を攻めた折に左足に負傷し、以後、左足をひきずるようになりますが、それでも長篠の合戦や高天神城の戦いに参加しました。

天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、家康は武田家ゆかりの娘を捜索させます。武田の血筋を欲したのと、武田旧領を統治する上で娘が室であれば都合が良いからでした。しかし美貌を謳われた信玄の娘・松姫は行方知れず。そこで家康は元忠に馬場信春の娘を探させますが、元忠は見つからないと返事しました。ところがしばらくすると、家康のもとに元忠が妻を娶ろうとしており、その女性は馬場信春の娘らしいという話が伝わります。すると家康は破顔大笑し、元忠に「その娘を正室にせよ」、と伝えたといわれます。

その後も元忠の活躍は続き、同天正10年の黒駒合戦では北条氏の大軍を撃退し、天正13年(1585)の第一次上田合戦にも参加、この戦いでは真田昌幸の前に大敗を喫しました。小田原攻めの後、家康が関東に移封されると、元忠は下総矢作城4万石を与えられます。

元忠は豊臣秀吉からも気に入られ、息子忠政を豊臣の直参に取り立てることを打診されますが、「わが家は徳川家に仕えることを先祖代々の家伝にしております」ときっぱり断りました。

秀吉が没し、慶長5年(1600)の関ケ原前夜。家康は上杉討伐軍を率いて関東に下向することになりますが、この時、上方における家康の拠点であった伏見城を託されたのが元忠でした。しかし家康が上方を離れれば、石田三成らが挙兵することは火を見るより明らかで、その時にはまず伏見城が血祭りに上げられます。家康はいわば元忠に、「死兵」となることを命じたのでした。6月16日、家康は伏見城に宿泊し、元忠と深夜まで酒を酌み交わしたといわれます。かけがいのない忠臣を死に追いやるのは、家康としても断腸の思いだったでしょう。家康が「置いていけるのは3000ばかりで、苦労をかける」と言うと、元忠は「なんの。殿の天下取りのためならば、この彦右は喜んで捨石となりましょう。捨石に3000の兵は多すぎますぞ。これから殿はまだまだ兵が必要になり申す」と1800人に減らさせました。さすがの家康も、声を詰まらせたはずです。

家康率いる討伐軍が東国に向かうと、予想通り、石田三成は毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵。 西軍の総大将に収まった毛利輝元は、7月18日、伏見城明け渡しを留守居役の鳥居元忠に命じました。当然ながら鳥居はこれを拒絶。西軍とすれば京都・大坂の流通を扼する伏見城を放置するわけにはいかず、宇喜多秀家を総大将にして、4万の大軍で攻め寄せました。鳥居らのおよそ20倍の兵力です。

とはいえ伏見城は、秀吉が標高100m余りの木幡山に築いた、東西800m×南北800m規模の巨大城郭であり、本丸を中心に西丸、松ノ丸、右衛門尉曲輪、治部少輔曲輪、三の丸が高石垣上に築かれた堅城です。攻略は容易ではありません。しかも鳥居ら守備隊の士気はすこぶる高く、さらに西軍側の攻撃が今ひとつ積極性に欠けたため、数日で決着がつくかと思われた攻防戦は、5日経ち、一週間が過ぎても埒があきませんでした。

この西軍の窮状を救ったのは、甲賀衆でした。伏見城の籠城に加わっていた甲賀衆が西軍側に寝返り、8月1日、松ノ丸に火を放って、西軍の大手門突破を許したのです。 一説にこれは、西軍側に妻子を人質にとられた甲賀衆が脅されて、妻子の命とひきかえに内通したと語られますが、なにぶん関ケ原合戦後に記された記録がもとであり、果たして事実であったかはわかりません。というのも伊賀、甲賀、雑賀などの傭兵たちは横のつながりが強く、籠城戦の最中にも城の内外で連絡を取り合うことは可能であったようだからです。あるいは彼らのそうしたネットワークに目をつけた西軍側の才覚者が、うまく彼らを味方につけて、内通を図った可能性もあるのかもしれません。

松ノ丸に火の手が上がり、城の守りがついに破られたと悟った元忠は、本丸の総門を開き、守備兵は槍を揃えて、迫り来る西軍を待ち受けました。 西軍側は、殲滅はしないので、城を落ちるよう呼びかけますが、元忠らは応じません。そして鳥居らは西軍と壮絶な戦いを演じ、城を枕に討死していきました。鳥居を討ち取ったのは、鈴木重朝であったといわれます。 鈴木もまた雑賀衆であり、伏見城攻防戦を制したのは、甲賀・雑賀らのネットワークであったことを感じさせます。

なお、合戦前のこと。元忠が城の図面を奥方に見せると、「この城は松の丸が横手よりの攻めに脆いと存じます。まず松の丸が破られましょう」と応え、果たしてその通りになったことで、元忠は「さすがに名将馬場殿の娘であることよ」と感心したという逸話が伝わっています。

鳥居元忠、享年62。その死は「三河武士の鑑」と称えられることになります。

iyashi

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