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江戸町火消「いろは47組」とは

2017年08月07日 公開
2023年04月17日 更新

8月7日 This Day in History

江戸の火消

今日は何の日 享保5年8月7日

江戸幕府が江戸町火消を「いろは47組」に再編成

享保5年8月7日(1720年9月9日)、江戸幕府が江戸町火消を「いろは47組」に再編成しました。

江戸時代を通じて、江戸で起きた火事は約1800件。「火事と喧嘩は江戸の華」などというものの、いったん火がつけば木と紙と土でできた当時の家屋はひとたまりもありません。

明暦3年(1657)の有名な明暦の大火(振袖火事)では、死者10万人以上という大惨事となりました。これに対して幕府は、徐々に火消の制度を整えていきます。具体的には武士によって組織された武家火消と、町人によって組織された町火消で、武家火消は大名による大名火消と旗本による定火消に大別できます。

まず寛永20年(1643)に制度化されたのが大名火消でした。幕府が課役として大名に命じたもので、火事が起きてから出動を命じるのではなく、あらかじめ消火を担当する大名を決めておいたものです。し

かしこれだけでは不十分と、明暦の大火の翌年の万治元年(1658)、幕府は直轄の火消として、旗本に消火を命じる定火消を制度化しました。火の見櫓を備えた火消屋敷を与え、臥煙(がえん)と呼ばれる専門の火消人足を雇わせたもので、最盛期には15組存在しました。10組であった期間が最も長かったようです。

そして享保5年、8代将軍吉宗の享保の改革の一環として、町火消が制度化されました。町人による火消で、町ごとに火消人足を用意し、火事の際には出動する義務を課したものです。これについては南町奉行の大岡越前守忠相が、名主たちの意見を参考にしながら考案し、いくつかの町を「組」としてまとめ、「いろは47組」(後に一つ増えて48組)を設けたとされます。また47組が担当するのは隅田川の西で、本所や深川などの隅田川の東には別に16組設けられました。

各組では独自の纏(まとい)と幟(のぼり)が作られ、火事場での目印にするとともに、組のシンボルとして扱われるようになります。47組の中でも、「へ=屁」「ら=摩羅」「ひ=火」「ん=終わり」は組名としての使用を避け、代わりに「百」「千」「万」「本」に置き換えられました。享保15年(1730)には、47組を1~10組の大組に分け、大纏を与えて、より多くの火消人足を現場に動員できるようにしています。

なお町火消は町奉行の支配下に置かれ、町火消を統率する頭取、いろは各組を統率する頭、纏持ちと梯子持ち、平人(ひらびと、鳶人足のこと)、土手組(下人足)で構成されました。頭取クラスは江戸でも有名人として扱われたようです。また町火消の男たちは危険を顧みぬ度胸のよさと、ここ一番では火の中水の中に飛び込んで人を助ける心意気を誇りとし、江戸の人々から親しまれました。それだけに喧嘩っ早いところもあり、消火現場での組同士の功名争いはしばしば起こりました。また「め組の喧嘩」のように、火消と力士の衝突も起きています。

しかしこれも江戸の活力といえないこともなく、自分たちの町は自分たちの手で守るという意識を育み、それに対する誇りを与えた点で、大岡越前の町火消設置は大きな意味があったといえそうです。

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