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洞ケ峠で有名な筒井順慶とは、どんな人物だったのか

2017年08月10日 公開

歴史街道編集部

大和郡山城

大和郡山市
天正8年(1580)、筒井順慶は大和守守護職を与えられ、大和一国を支配し、現在の大和郡山市に城を築いた。
 

今日は何の日 天正12年8月11日

洞ケ峠の筒井順慶が没

天正12年8月11日(1584年9月15日)、筒井順慶が没しました。大和国の戦国武将で、洞ケ峠のエピソードでも知られますが、実像はどうだったのでしょうか。

天文18年(1549)、順慶は大和国筒井城主・筒井順昭の子に生まれました。筒井家は大和興福寺の衆徒です。得度する前の名は藤勝、後に藤政と名乗りました。

天文19年(1550)、父の順昭が27歳で病死します。順慶はまだ2歳でした。死に臨んで順昭は、自分の跡は順慶が継ぐことを家臣に誓わせ、また自分の死を1年間は秘し、自分の身代わり(影武者)として、奈良に住む自分とよく似た盲目の黙阿弥を言い含めて、城に置くことを命じました。他界した順昭は人知れず葬られ、黙阿弥が順昭として病床に伏したため、他勢力は順昭の生存を信じて攻め込むことができません。その間に筒井家家臣はさまざまに手を打っておき、一年後に順昭の死を発表。その巧みな手際に他勢力は驚いたといいます。なお影武者の役割を無事に終えた黙阿弥はまた元の生活に戻り、ここから「元の黙阿弥」という言葉が生まれました。

まだ幼い順慶を、叔父の順政が後見するかたちで筒井家は新たなスタートを切りますが、その順政が永禄7年(1564)、順慶が16歳の時に死去すると、大和で最も危険な男が牙を剥きます。松永久秀でした。間髪入れずに襲い掛かった松永は順慶の筒井城を落とし、順慶は一族の布施氏を頼って、布施城に匿われることになります。順慶と松永の以後13年に及ぶ抗争の始まりでした。

永禄9年(1566)、三好三人衆と手を結んだ順慶は、松永が三好との戦いに追われている間隙を衝いて、筒井城奪還を図ります。そして形勢不利とみた松永は順慶と和議を結び、筒井城は順慶の手に戻ることになりました。同年、順慶は正式に陽舜坊順慶と名乗ります。翌永禄10年には、順慶は再び三好三人衆と結んで、奈良で松永と戦いました。東大寺の大仏殿が焼けて、大仏の首が落ちたのはこの時のことです。

しかし、翌永禄11年(1568)、織田信長の上洛によって、畿内の勢力地図は再び大きく変わりました。信長にいち早く臣従した松永は、信長が三好三人衆を駆逐するのを尻目に、再び筒井城を攻めて、これを奪います。順慶は福住城に退きますが、やがて信長と松永の間が険悪となる一方、順慶は新たに辰市城を築いて勢力回復に努めました。そして元亀2年(1571)、辰市城の近くで順慶は松永、三好義継連合軍を破り、筒井城を奪還しました。筒井城に順慶が入ったために、松永の信貴山城と多聞山城は連絡が分断されることになり、松永にとっては不利な状況となります。同年、順慶は明智光秀を通じて正式に織田信長に臣従しました。翌年には松永の多聞山城を攻略しています。

その後、信長の配下として数々の合戦で武功を立てた順慶は、天正4年(1576)には信長によって大和守護に任ぜられました。そして翌天正5年、信貴山城に籠城する松永を討って、ようやく宿敵との戦いにけりをつけます。さらに摂津の荒木村重攻めに参加、天正8年(1580)には居城を筒井城から大和郡山城に移し、筒井城は廃しました。

天正10年(1582)、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれます。光秀は順慶にとって信長への臣従を斡旋してくれた恩人であり、縁戚関係にもありました。光秀は当然、順慶の協力を期待しますが、順慶はどうすべきか、島左近、松倉重信ら重臣たちと去就について郡山城で軍議を重ねました。洞ケ峠にまで来て、順慶に圧力をかけたのはむしろ光秀の方であり、順慶が洞ケ峠で光秀と羽柴秀吉の合戦の日和見を決め込んだという事実はなかったとするのが、最近の見解のようです。

光秀は順慶が動かないと悟ると、下鳥羽に軍を返し、山崎の合戦で秀吉と戦って敗死しました。 順慶は秀吉のもとに伺候し、秀吉から山崎の合戦に参加しなかったことを叱責されはしましたが、臣従を許されます。その後、翌年の柴田勝家との戦い、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いにも参加しますが、この頃から胃の痛みがひどく病床に伏すようになり、同年、大和に帰還してほどなく没しました。享年36。

松永との大和争奪に相当な時間を費やし、ようやく大和を統一した暁には、信長と秀吉の天下取りに巻き込まれるという生涯でしたが、武将としての力量は相当なものであったと見てよいのでしょう。

iyashi

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