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松平忠直~大坂陣の戦功随一といわれた家康の孫は、はたして暴君だったのか?

2017年09月09日 公開

歴史街道編集部

今日は何の日 慶安3年9月10日

結城秀康の息子・松平忠直が没

慶安3年9月10日(1650年10月5日)、松平忠直が没しました。結城秀康の息子で、徳川家康の孫。越前北ノ庄(福井)藩主で大坂の陣で活躍したことでも知られます。菊池寛の小説『忠直卿行状記』などで暴君のイメージがありますが、実像はどうであったのでしょうか。

文禄4年(1595)、松平忠直は摂津国で生まれました。父親の結城秀康は徳川家康の次男でしたが、豊臣秀吉のもとに養子として送られ、さらに下総の結城家の養子となっています。このため、兄で長男の信康の没後も、秀康は家康の世子となることができず、二代将軍の座も、弟の秀忠に奪われることになりました。豪気な性格であった秀康にすれば、無念でなかったはずがありません。

秀康は慶長12年(1607)に没。 その無念は、息子の忠直にも濃厚に受け継がれていました。 本来であれば父・秀康が二代将軍であり、当然、自分もまた将軍になるはずであった…。そうした意識が強く、幕府も忠直の越前家68万石を、「制外の家」として特別扱いします。

慶長16年(1611)に忠直が将軍秀忠の三女・勝姫を娶ると、「制外の家」としての特殊性はより強まりました。ところが翌年、家中で重臣たちが対立し、大御所家康、将軍秀忠に直訴に及ぶ御家騒動が起こります。騒動は家康、秀忠の裁定で収まり、主君の忠直がまだ若いゆえの混乱であるとされました。「越前騒動」です。

慶長19年(1614)の大坂冬の陣で、20歳の忠直は、前田利常や井伊直孝と先陣を競い、真田丸に攻め掛かりますが、真田信繁(幸村)の痛烈な銃撃を受けて、多大な犠牲を出します。翌年の夏の陣では、5月6日の八尾・若江方面の戦いで、軍令を守って動かず、味方の藤堂、井伊隊の苦戦を救援しなかったため、家康から「昼寝でもしていたのか」と叱責されてしまいました。その恥を雪ぐべく、翌日の岡山・天王寺の戦いでは、軍令違反を承知で先陣を切り、真田隊や毛利勝永隊を相手に苦戦しつつも、最後は兵力数に物をいわせて、真田信繁を討ち取る武勲を立てます。これには家康も「さすがはわが孫、大坂陣の戦功随一」と激賞し、天下の名物「初花」の茶入を授けました。「初花」は織田信長愛蔵の東山御物で、秀吉を経て、宇喜多秀家が家康に献上したといういきさつのあるものです。喜んだ忠直は、大坂陣の戦功随一にふさわしい行賞が行なわれると期待しました。ところが論功行賞としての領地加増は一切なく、忠直は不満を募らせることになります。

元和3年(1617)、叔父にあたる家康の第9子義直と第10子頼宣が、参議である忠直を越えて中納言に昇進すると、忠直の不満は爆発しました。元和7年(1621)には病と称して江戸への参勤を怠り(病は事実であったとする記録もあります)、翌年には正室勝姫の殺害を企てたといわれます。忠直が家臣を信じられなくなり、妊婦の腹を割くといった乱行に及んだといわれるのは、この頃のことでしょう。しかし、小説に描かれたような乱行伝説のほとんどは、中国の故事をもとに後世作られたものという説が最近では一般的です。また、平戸のイギリス商館のリチャード・コックスの手紙に、将軍に対して、日本最大の諸侯8、9人による大陰謀が発覚し、そこに将軍に近い血族がからんでいるという内容のものがあり、将軍に近い血族とは、忠直を指すという説もあります。

元和9年(1623)、忠直は将軍秀忠から隠居を命じられ、出家して一伯と名乗り、豊後府内藩に配流となりました。29歳の時のことです。最初は豊後国萩原(現在の大分市萩原)、2年後には一里ほど離れた津守に移り、厳重な監視下に置かれながら、村人たちと交わり、庶民的な暮らしを続けたといわれます。以後は亡き側室と娘の菩提を弔い、息子の病気回復を祈り、寺社に数々の寄進を行なう静かな日々でした。地元では、敬われていたという話も伝わります。

慶安3年、忠直没。享年56。忠直もまた、その実像が正しく伝わっていない一人なのかもしれません。

iyashi

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