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赤松満祐と嘉吉の乱~将軍・足利義教は、なぜ暗殺されたのか

2017年09月10日 公開

歴史街道編集部

今日は何の日 ​嘉吉元年9月10日

将軍・足利義教を暗殺した赤松満祐が切腹

嘉吉元年9月10日(1441年9月25日)、赤松満祐が切腹しました。足利6代将軍義教を暗殺した嘉吉の乱で知られます。

満祐は弘和元年(1381)、赤松義則の子に生まれました。父の義則は、播磨、備前、美作を領する有力守護大名で、室町幕府の侍所別当を務め、3代将軍足利義満、4代義持から深く信頼されています。義則は背丈が低く三尺入道の異名がありましたが、それは息子の満祐も同じだったようで、後に父と同様に三尺入道と呼ばれることになります。

応永34年(1427)、父の死に伴い、満祐は47歳でようやく家督を相続。すると前将軍・義持が思わぬ横槍を入れます(当時、義持の子で5代将軍の義量が早世したため、義持が再び政務をとっていました)。満祐から所領の播磨国を没収し、側近で寵愛する赤松持貞(満祐の又従兄弟)に与えようとしたのです。満祐は京都の屋敷を焼いて播磨に戻り、将軍相手の合戦準備を始めました。義持はこれに怒り、満祐の備前・美作の領地も召し上げた上で討伐を命じますが、これに積極的に従う者はなく、やがて赤松持貞が不義密通のかどで切腹したことにより、満祐は赦免されました。しかし満祐は、将軍への不信感をこの時に強く抱いたことでしょう。

応永35年(1428)、前将軍・義持は危篤に陥り、義持が後継者の指名を行なわなかったため、弟たちの中から籤引きで後継者が選ばれることになりました。そして籤引きの結果、後継者に選ばれて6代将軍となったのが、天台座主・義円で、翌年の正長2年(1429)、義教と名を改めて6代将軍に就任します。

義教は幕府権威の復活と将軍親政に努め、さらに勘合貿易を復活させて、幕府の財政政策の見直しを行ないました。しかしその一方で、義教は「悪御所」の異名をとる苛烈な性格で知られ、些細な理由で家臣や周辺の人々を罰しています。ひどい例を挙げると、酌の仕方が悪いと侍女が殴られた挙句、尼にさせられたり、献上された梅の枝が折れた、料理がまずいという理由で、庭師や料理人が厳罰に処せられました。そんな義教は「万人恐怖、言うなかれ、言うなかれ」と当時の記録に記されています。

そして義教は対抗勢力である関東公方・足利持氏を朝敵に仕立て、永享11年(1439)、関東を討伐しました(永享の乱)。さらに翌年、足利持氏の遺児・安王、春王が結城氏朝に担がれて結城合戦を起こすと、これもまた鎮圧します。さらに義教の手は、幕府内の有力大名の粛清にも及び、結城合戦と同年の永享12年(1440)には、赤松満祐の弟の領土が没収され、満祐自身の所領もいずれ没収されるという噂が流れました。赤松に限らず、義教は四職の一色氏や土岐氏の当主を暗殺して、自分に都合の良い者に首を挿げ替えることまでしており、満祐の危機感もますます募ることになります。

嘉吉元年(1441)、赤松満祐の子の教康は、結城合戦の戦勝祝いとして、能を献上したいと、将軍義教を自邸に招きました。そして猿楽の最中、屋敷中の門が音を立てて閉じられ、義教が「何事であるか」と叫ぶと、赤松家家臣の安積行秀が座敷に乱入して、義教の首を刎ねたといわれます。同席した諸大名は慌てふためきますが、満祐に他の者を傷つける意思はなく、大名たちは退出しました。これが「将軍の犬死」と当時の日記に記された、将軍義教のあっけない最期でした。

満祐は、討った義教の首を掲げて播磨国坂本城に帰還します。将軍を失った幕府は一時期、混乱の極みに陥りますが、細川持氏、赤松貞村、細川持親らが播磨に進攻し、これに山名持豊の軍勢も合流して、坂本城を包囲します。満祐は城を脱して、城山城に籠りますが、ここも山名勢に包囲され、9月10日、満祐は弟らを脱出させた上で自刃しました。享年61。この一連の事件で将軍の権威は失墜し、守護大名の台頭を招いていくことになります。

iyashi

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