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立花道雪~武士たる者に弱者はいない!

2017年09月10日 公開
2018年08月28日 更新

9月11日 This Day in History

今日は何の日 天正13年9月11日
立花道雪(戸次鑑連)が没

天正13年9月11日(1585年11月2日)、立花道雪が没しました。大友宗麟の家臣で、百数十度の合戦で一度も後れをとったことがないといわれた戦功者です。

永正10年(1513)、道雪は豊後守護・大友氏庶流の戸次親家を父に生まれました。幼名は八幡丸、通称は孫次郎。大永6年(1526)に14歳で元服、主君・大友義鑑の偏諱を賜って鑑連と名乗り(後に道雪)、伯耆守を称します。同年、父の死により家督を相続し、豊後鎧ケ岳城主となりました。初陣で敵将を捕える武功を挙げ、以後、一度も戦いで後れをとらなかったといわれます。

天文19年(1550)、主君・義鑑は嫡子・義鎮(後の宗麟)を廃し、側室の子に家督を譲ろうとしたことで御家騒動が起こり、側室の子も義鑑も落命しました。「大友二階崩れ」です。この時、道雪は義鎮擁立に尽力しました。時に義鎮21歳、道雪38歳。

翌天文20年(1551)に中国の大内義隆が家臣の陶晴賢に背かれて自害、義鎮は大内氏からの要請を容れて弟・晴英を大内家の跡取りに入れます。晴英は大内義長と改名しました。大内家の没落を機に義鎮は九州での勢力拡大に乗り出し、天文23年(1554)には豊後・肥前・肥後守護職を兼ねることになります。そしてこの義鎮の活躍を支えたのが、道雪と臼杵鑑速(あきすみ)、吉弘鑑理(よしひろあきまさ)の3将でした。

その後、中国では毛利元就が勢力を伸張し、弘治3年(1557)には大内義長も元就に討たれて、大内氏は事実上滅びます。さらに元就は北九州を窺い、門司城を奪取。ここに毛利と大友は、門司城をめぐって10年にわたる争奪戦を続けることになっていきます。

その間の永禄2年(1559)、義鎮は豊前・筑前・筑後の守護職に補されて、実に九州6カ国の守護を兼ね、さらに九州探題にも任じられました。しかし、九州随一の大大名となった義鎮は驕り、酒と美女に耽溺するようになります。家臣の声にも耳を傾けない義鎮に道雪は、わざと自宅に白拍子を集めて主君を上回る遊興を連日催し、興味をそそられた義鎮が道雪を館に呼ぶと、道雪は白拍子の舞を見せた後で、言葉を尽くして主君の行ないを諫めたといいます。道雪の涙を流しての諫言に、さすがの義鎮も行ないを改めました。

永禄4年(1561)、義鎮は道雪、臼杵鑑速らを加判衆に任じた上で、門司城奪回の主将として、攻撃に向かわせます。元就が大軍を送ったため奪回はなりませんでしたが、道雪の戦ぶりは毛利軍を恐れさせました。翌永禄5年、義鎮は出家して宗麟と号し、道雪も剃髪して麟白軒道雪と名乗ります。彼が道雪と称するのは、正しくはこの時からでした。

永禄7年(1564)、将軍足利義輝の仲介もあって、義鎮と毛利元就は和睦しますが、元就がおとなしく引き下がるはずはありません。毛利は筑豊の国人衆に調略の手を伸ばし、永禄9年(1566)には高橋鑑種、秋月種実、筑紫惟門(これかど)、原田隆種らが叛旗を翻し、永禄11年には大友一族の立花山城主・立花鑑載(あきとし)までが寝返ります。この事態に宗麟は道雪らに鎮圧を命じ、同年7月、道雪らは鑑載を討ち、筑前の要衝・立花山城を奪還しました。これによって他の寝返り組も降伏。しかし道雪らが肥前の龍造寺隆信と対峙している間に、立花山城は再び毛利方に奪われます。道雪は龍造寺と和睦すると、兵を筑前に返し、多々良浜の戦いで毛利軍主力の小早川勢を撃破しました。永禄12年(1569)、毛利勢はようやく九州から撤退します。

元亀2年(1571)、道雪は毛利との戦いにおける功績により、立花氏の名跡を継いで、立花山城主となりました。天正3年(1575)には愛娘の誾千代(ぎんちよ)に家督を譲って立花山城主とし、さらに天正9年(1581)には、高橋紹運の息子・統虎(むねとら)を婿養子に迎えて、家督を譲ります。これが立花宗茂でした。

一方、宗麟は天正6年(1578)頃より島津討伐を企図します。道雪は時期尚早とこれに反対しますが、宗麟は同年、日向侵攻を強行し、島津との耳川の合戦で大敗を喫しました。これを境に大友は島津に圧迫され始め、特に天正12年(1584)、龍造寺隆信が沖田畷の戦いで島津軍に討たれると、島津の圧力はいよいよ強くなりました。そうした中、道雪は筑後の確保に努め、翌年、筑後諸城を攻略して、柳川城攻めの最中、高良山の陣中で没しました。享年73。

道雪は「武士たる者に弱者はいない。もし弱いといわれている者がいれば、その者が悪いのではなく、大将の励ましようが足りないのだ。わしの家中では士分はもちろん、雑兵に至るまで、数度の功名なき者はいない。他家で人に後れをとる武士がいれば、わしに仕えるがよい。必ず逸物にしてやる」と語ったとか。そう言えるリーダーでありたいものです。

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