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第六天魔王・織田信長が比叡山焼き討ちにこめた「決意」

2017年09月11日 公開

歴史街道編集部

比叡山延暦寺

今日は何の日 元亀2年9月12日

第六天魔王降臨、信長が比叡山延暦寺を焼き討ち

元亀2年9月12日(1571年9月30日)、織田信長が比叡山を焼き討ちしました。鎮護国家の寺として、平安時代には白河法皇をも意のままにならぬと嘆かせた比叡山延暦寺を容赦なく攻撃し、堂塔伽藍すべてを焼き払い、僧俗を問わず皆殺しにしたことで知られますが、異説もあるようです。

信長と比叡山の対立は、永禄12年(1569)に信長が比叡山領を横領したことに端を発するといわれますが、直接的な原因は元亀元年(1570)の姉川の合戦後、浅井・朝倉の軍勢を援助して、比叡山に立て籠もることを許した点にありました。このため信長は姉川の合戦に勝利したにもかかわらず、続く三好三人衆や石山本願寺との摂津の野田・福島の戦い(第一次石山合戦)の最中、背後の京都を浅井・朝倉勢と比叡山の勢力に脅かされて、軍を近江に返して志賀の陣で対峙することになるのです。

信長は浅井・朝倉軍が立て籠もる比叡山に対し、「中立を守ってほしい、浅井・朝倉に味方するのであれば、焼き討ちする」と伝えますが、黙殺されました。やむなく信長は軍勢を動員して比叡山を囲みますが、南近江では六角義賢が旧敵の浅井に協力して蠢動、三好三人衆は京都を窺い、本願寺は一向門徒に檄を飛ばして、伊勢長島や尾張で一向一揆を激化させます。さしもの信長も足利義昭と朝廷を動かしていったん講和を結ぶこととし、元亀元年末にようやく志賀の陣は終息しました。おそらくこの頃から、信長の胸中では比叡山焼き討ちが具体化していったのでしょう。

翌元亀2年の年明け早々、信長は浅井の小谷城を睨む横山城の羽柴秀吉に命じ、大坂と越前を結ぶ海路・陸路を遮断させ、朝倉勢と本願寺の連繋を断ちます。続いて浅井の臣・磯野員昌の拠る佐和山城を降すと、伊勢の一向一揆の拠点となった村を殲滅し、さらに南近江の六角氏を叩きました。こうして諸勢力を各個撃破した上で、元亀2年9月11日、信長は園城寺に本陣を置き、比叡山攻めにとりかかるのです。ちなみに比叡山攻めの準備を整えたのは明智光秀でした。光秀は比叡山攻めに反対し、信長の不興を蒙ったなどとよくドラマで描かれますが、比叡山を潰さなければ織田家が窮地を脱することができないことは、一流の武将である彼はむしろよく承知していたことでしょう。

元亀2年9月12日、信長は総攻撃を命じます。根本中堂、山王二十一社をはじめ、ことごとくを焼き、経典類もすべて灰燼となり、高僧も児童も美女も一人ひとり首をはねられたと『信長公記』にはあります。当時、寺にいたのは非戦闘員を含めて約4000人といわれますから、その全員が殺されたと思いがちですが、必ずしもそうではないかもしれません。というのも、発掘調査の結果、焼き討ち時に焼失したと確実にいえるのは根本中堂と大講堂のみで、他の建物の多くはその以前に失われていたことがわかりました。また当時の僧の大半は山上でなく、麓の坂本付近にいたようなのです。

とはいえ信長の、敵対する者はたとえ宗教的権威であろうと容赦なくこれを全滅させるというメッセージは、強烈に敵対勢力に伝わりました。比叡山という敵対勢力の一つを潰すことより、そちらの方が信長にとっては大きな意味があったはずです。この一挙によって、天台座主沙門と称する武田信玄が上洛戦へと動き、一方、信長は自ら「第六天魔王」と称するに至りました。信長にすれば、もはや後にはひけない一歩を踏み出した瞬間であったのかもしれません。

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