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関ケ原の戦い~石田三成は大垣城に拠らず、なぜ、野戦に転じたのか?

2017年09月14日 公開
2022年08月08日 更新

9月15日 This Day in History

関ケ原石田三成馬防柵

今日は何の日 慶長5年9月15日
天下分け目の関ケ原の合戦

慶長5年9月15日(1600年10月21日)、関ケ原の合戦が起こりました。天下分け目の決戦として、あまりにも有名です。

岐阜県不破郡関ケ原。岐阜県と滋賀県の県境に近く、伊吹山の南東麓に位置し、南北を山に囲まれています。古代には不破の関が置かれ、中山道と北国脇往還、伊勢街道が交差する交通の要衝でした。現在も名神高速道路、東海道本線、東海道新幹線が通っています。新幹線などで通過する際、それまでの天候が関ケ原付近で急激に変わることがよくありますが、日本列島を東西に分けるくびれた要地であることが、実感できます。

慶長5年9月14日夜、西軍主力は大垣城から関ケ原へと移動し、布陣することになります。なぜ、三成は大垣城に拠らず、野戦に転じたのでしょうか。かねて言われていたのは、東軍側が籠城戦を避けるために、「大垣城をやり過ごして三成の佐和山を衝く」という噂を流し、それに狼狽した三成が慌てて関ケ原に移動したというものです。ただ、これは考えにくいでしょう。なぜなら関ケ原にはすでに、多くの西軍武将が布陣しています。大谷吉継、脇坂安治、小早川秀秋、南宮山の吉川広家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親らです。彼らが意味もなく布陣していたわけがなく、また三成が急遽、無計画に関ケ原を戦場に選んだとは思えません。そもそも東軍は、西軍の関ケ原への移動に気づくのが遅れました。噂を流して西軍を大垣城から引きずり出すつもりであれば、西軍の動きに注視していたはずです。

大垣城

次に、大垣城は低地に築かれた城であり、東軍に水攻めにされて孤立することを恐れて、三成は城を出たともいわれます。しかし、大垣城の特性は最初から三成も承知していたはずであり、それが理由というのも考えにくいのではないでしょうか。もっとも、南宮山の諸将の陣は、大垣城を向いて築かれていました。つまり大垣城の後詰めです。美濃赤坂の東軍からすれば、大垣城とその背後の南宮山の諸将は一体のものとして捉えられていたことでしょう。それもあってか、南宮山の吉川広家、松尾山の小早川秀秋、関ケ原の脇坂安治らには、事前に東軍から調略の手が伸びていました。 彼らが寝返れば、大垣の西軍主力を包囲殲滅することが可能になります。三成は、吉川や小早川に調略の手が伸びているのを、どのぐらい察知していたのでしょうか。これに関係して、三成が関ケ原に移動した別の説があります。すなわち、去就の定まらぬ松尾山の小早川秀秋を完全に西軍に取り込むために、関ケ原に布陣した、というものです。

もともと松尾山は城として構築し、三成はここに総大将である毛利輝元を迎える予定であったといわれます。それが輝元は現われず、代わりに小早川秀秋が居座ってしまいました。そうした準備を見ても、三成が事前に関ケ原を戦場に想定していたことは、ほぼ間違いないでしょう。

関ヶ原

9月15日早朝より、関ケ原において東西合計15万を超える軍勢の決戦が行なわれます。西軍で積極的に戦っているのは、宇喜多、大谷、小西、石田の諸隊で、松尾山の小早川隊や、南宮山の毛利秀元、吉川広家、長宗我部盛親らは戦闘に加わっていません。それでも特に西軍最強の宇喜多隊の活躍は目覚しく、明石掃部の指揮のもと、福島正則隊をはじめ、井伊隊、加藤隊らを押し返します。大谷隊には藤堂隊、京極隊が攻めかかりますが、視力を失っているにもかかわらず、大谷吉継はこれを跳ね返します。石田隊には黒田隊、細川隊が迫りますが、笹尾山に陣地を築き、三成は大砲などを用いて防戦しました。

一方の徳川家康本隊は戦闘に加わらないものの、桃配山の本陣から最前線近くまで前進します。それでも午前中は西軍が押し気味でした。ここで松尾山の小早川、南宮山の毛利が動けば、一気に勝負を決することができると、三成は何度も攻撃を促す狼煙を上げますが、彼らは動かず。そして正午頃、ようやく小早川が腰を上げると、松尾新城から打って出て、攻撃した相手は何と味方の大谷隊でした。この小早川の寝返りで、関ケ原の大勢は決します。

歴史にifは禁物というものの、関ケ原合戦についてはifがよく語られます。ここであえて一つを挙げるとすれば、大津城攻撃があと一日早く決着し、西軍に立花宗茂、毛利元康ら1万5千の精鋭が本戦に参加していれば、ということです。彼らの強さは際立っており、また立花、毛利らの隊には九州勢が多いため、彼らが積極的に働けば、同じ九州で縁の浅からぬ小早川も、そちらに引きずられたかもしれません。関ケ原については、西軍びいきの人にとっては、勝敗の決まり方が気分的にすっきりしないため、「もしこうであったら……」という話が、今後も語られていくように思います。

嶋左近

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