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並木路子と「リンゴの唄」~戦後ヒット曲第1号誕生の秘話

2017年09月30日 公開

歴史街道編集部


 

歌手・並木路子が生まれる

今日は何の日 大正10年(1921)9月30日

大正10年(1921)9月30日、歌手の並木路子が生まれました。終戦直後の「リンゴの唄」で知られます。今回は、ご存知の方も多いかもしれませんが、「リンゴの唄」誕生のいきさつをご紹介します。

並木は東京浅草で生まれ、昭和11年(1936)、15歳で松竹少女歌劇学校に入学。翌年には初舞台を踏みました。しかし戦争で商社マンだった父と次兄を失い、初恋の人も学徒出陣後、特攻隊で失いました。さらに昭和20年3月10日、東京大空襲に見舞われます。無数の焼夷弾が降る中、並木は高齢の母親の手を引いて必死に避難しますが、衣服に火がついたのでしょうか、「熱い、熱い」と叫んで、母親は隅田川に入りました。並木は母親を離すまいと、襟首をつかんでいましたが、流れの速さと混乱の中で手が離れます。母親の姿は川の中に消えてしまい、数日後、変わり果てた姿で見つかることになりました。遺体が母親とわかったのは、懐に並木の「松竹歌劇団」の給料袋が入っていたためといわれます。並木が歌手として舞台に立つことを、誰よりも楽しみにしていた母親でした。

まだ心の傷も癒えぬうちに終戦となり、8月の末、並木は松竹に呼び出されます。松竹では日本人を勇気づける映画を作ろうと「そよかぜ」制作の話が進んでいました。ストーリーは舞台の裏方の少女が歌手になるというもので、その主役に並木が抜擢されたのです。彼女が夢見ていた歌手デビューのチャンスでした。しかし、並木は断ります。愛する人たちを失った悲しみから、立ち直れなかったのです。

並木を主役に推していた作詞家サトウハチローは、主題歌として「リンゴの唄」を差し出します。そして「この歌を並木に歌わせてほしい。これを歌えるのは、明るい声の並木しかいない」と強く要望しました。サトウの熱意の前に、並木は主役を引き受けます。

撮影は順調に進み、いよいよ主題歌「リンゴの唄」の録音になりました。 ところが何度歌っても、作曲家万城目正(まんじょうめただし)はOKを出しません。並木がどうしても明るく歌うことができなかったからでした。無理もないでしょう。明るく歌おうとすればするほど、死んだ兄や恋人や母の顔が思い出されてしまうのです。録音は何度も中断されました。どうしていいのかわからない様子の並木に、万城目は「上野に行ってみなさい」と告げます。並木は理由がよくわからぬまま、上野に向かいました。

一帯は焼け野原でしたが、みすぼらしいながらも建物を建ててヤミ市が形成され、大人も子供も生きるために必死に働いています。ふと見ると、少年が一所懸命に靴磨きをしていました。並木は「歳はいくつ?」と話しかけます。すると少年は「母ちゃんがいなくなったから、わかんない」と答えました。見回せば、少年と同じような子供がたくさん働いています。並木は胸をつかれる思いで、ハッと気がつきました。

「こんな小さなこの子も、あの子も、親を失って一人で生きていかなくてはならない。不幸なのは、私だけではないんだ」

並木に決意が生まれました。「この子たちのために、いま必死に生きようとしている人々のために私は歌おう」と。 スタジオに戻った並木に、万城目が頷きました。

「その思いを大事にしなさい」

並木は再びマイクに向かいました。そして作詞家サトウハチロー、作曲家万城目正たちの思いが込められた「リンゴの唄」を、並木は渾身の力で歌ったのです。 こうした背景を知ると、おなじみのあの歌も、全く違った趣きで聞こえてくるような気がします。

iyashi

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