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石田三成斬首~大志を抱く者は最期の瞬間まで諦めない

2017年10月01日 公開

歴史街道編集部

石田三成

石田三成が処刑

今日は何の日 慶長5年10月1日

慶長5年10月1日(1600年11月6日)、石田三成が処刑されました。関ケ原合戦から2週間余り後のことです。

9月15日に関ケ原合戦で敗れた三成は、伊吹山を越えて近江に入り、古橋村へ向かいます。古橋村は三成の母親が生まれた地でした。きこりの姿に身をやつした三成は、数日をかけて潜行し、古橋村の法華寺の塔頭・三珠院の善説を訪ねます。すると三成が三珠院に匿われたことを知った村人は善説に引渡しを求め、三成はやむなく三珠院を退去しました。

しかし潜行中に木の実や落穂で食をつないでいたためか、胃腸を壊して歩行もままなりません。茶畑に臥して身を隠していると、村人の与次郎がこれを見つけ、三成を家に連れて帰ります。与次郎にとって旧領主の三成は、かつて飢饉の時に村人を救うために百俵を融通してくれた、命の恩人でした。

ところが追手は与次郎の家にも迫ります。与次郎は家族に累が及ばぬよう妻を離縁した上で、三成を背負って法華寺裏の三頭(みつがしら)山中腹にある、大蛇(おとち)という岩穴に潜伏しました。三成は最後まで自分を助けてくれた与次郎に対し、その身を案じて、自分を追手の田中吉政に引き渡すよう勧めますが、与次郎は「どうしてそんなことをしましょうか。どこへなりとも忍んでお逃げください」と応えたといいます。

しかし、与次郎もついに三成に説得されて自首するに至り、身柄は田中吉政に引き渡されました。同じ近江の武将である田中は、三成をもてなそうとしますが、三成は腹具合が悪いため、韮雑炊を求めたといいます。

9月22日、三成は大津城に護送され、城の門前で生きさらしにされました。その姿を福島正則が嘲ると、三成は「わしに武運と二心を抱く者を見抜く目があれば、今頃お主がここに身を曝していただろう。お主の所業はあの世で太閤殿下にしかと伝える」と応えています。

徳川家康と対面後、同じく捕えられた小西行長、安国寺恵瓊とともに大坂・堺を引き回された後、9月29日に京都に移送され、京都所司代の管理下に置かれました。そんな3人に家康が小袖を与えると、三成は「贈り主は誰か」と尋ね、「江戸の上様からである」と聞くと、「上様とは大坂の秀頼公をおいて他にはいない。いつから家康が上様となったのか」と言って、受け取りを拒否したといいます。

10月1日、石田三成・安国寺恵瓊・小西行長の順で肩輿に乗せられて市中引き回しの上、六条河原へと移されます。この時、喉の渇きを覚えた三成が警衛の者に水を求めると、「水はないが、柿ならばある。これを喰え」と言われ、三成が「柿は痰の毒である」と断ったことを「じきに首を打たれる者が痰の毒を心配してどうする」と笑うと、「大志を抱く者は最期の瞬間まで諦めないものだ」と昂然と胸を張ったというのは有名です。

石田三成斬首。享年41。その首は三条大橋に晒された後、大徳寺三玄院に葬られました。三成は、毀誉褒貶はあるものの、彼なりの筋を通した人物であったことは間違いないようです。

iyashi

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