歴史街道 » 編集部コラム » 泗川の戦い~鬼石曼子こと島津軍が朝鮮出兵で大奮戦

泗川の戦い~鬼石曼子こと島津軍が朝鮮出兵で大奮戦

2017年10月01日 公開
2018年09月25日 更新

10月1日 This Day in History

島津義弘

朝鮮出兵における泗川の戦い

今日は何の日 慶長3年10月1日

慶長3年10月1日(1598年10月30日)、朝鮮出兵における泗川(しせん/サチョン)の戦いが起こりました。島津義弘率いる島津勢が、明・朝鮮連合軍の大軍を破ったことで知られます。

慶長3年(1598)9月から10月にかけて、豊臣秀吉の死の情報に力を得た明・朝鮮連合軍は、日本軍が拠る倭城に攻勢をかけました。そのうち明の董一元(トンイユァン)率いる軍が襲ったのが、島津義弘の拠る泗川倭城です。

泗川は釜山と西の順天(スンチョン)倭城(小西軍が拠る)の中間に位置し、泗川が落とされると順天倭城も孤立してしまいます。この時、董の連合軍は37000前後(一説に20万)といわれ、一方の島津軍は7000でした。泗川城は古城と新城があり、新城に詰める義弘は大軍の襲来を予想して、味方全軍に新城への撤収を命じますが、早くも董の連合軍が古城を襲います。数百で古城に拠る川上忠実は敵の囲みを突破し、新城へ撤退しますが、150人が討たれ、古城は敵に奪われました。川上らの苦戦に義弘の息子・忠恒(ただつね、後の家久)は古城救援を主張しますが、義弘は頑として許さず、川上らが新城に撤収するのを待ちます。一方、川上は部下に敵の食糧庫を襲わせ、その焼き討ちに成功しました。これによって大軍の明・朝鮮連合軍は兵糧を失い、短期決戦を余儀なくされます。

10月1日早朝。明・朝鮮連合軍は泗川新城に押し寄せました。義弘はぎりぎりまで敵を引き付けた上で、鉄砲と大砲を一気に放ちます。虚をつかれて混乱する連合軍を、義弘が城外に配していた伏兵が襲いました。島津軍の御家芸「釣り野伏」を応用した戦法です。義弘は泗川古城を「釣り」、新城を「野伏」に見立てていました。伏兵が敵の隊列を寸断して混乱に拍車をかけると、連合軍の後方では火薬庫が引火して大爆発が起こります。この機に乗じて、義弘率いる島津軍は城門から打って出ました。もはや連合軍の混乱は収拾がつかず、義弘自ら4人の敵を討ち、忠恒は7人を斬ったといわれます。連合軍は総崩れとなり、追い討ちをかけた島津軍は一説に、実に3万7000の敵を討ち取り、味方の犠牲はたった2人という奇跡的な大勝を挙げました。

この大敗北に、明軍は日本軍に和議を申し入れ、島津軍は「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼ばれて、敵軍の恐怖の対象となります。しかし、朝鮮水軍の李舜臣(イスンシン)は講和を潔しとせず、順天城の小西行長の帰途を阻み、海上を封鎖しました。ここで義弘は小西軍の救援を決断、海路西に向かって11月18日未明、露梁津(ノリャンジン)海峡で待ち伏せていた朝鮮水軍と激突します。そして互いに相手の船に乗り込む白兵戦を演じ、義弘ら日本軍は三分の一以上の兵力を失う苦戦をしながら、敵将・李舜臣を討ち取り、朝鮮水軍に大打撃を与えました。小西軍はこの隙に、順天からの脱出に成功します。

目的を果たした島津軍は12月10日には博多に戻りました。これらの活躍により島津家は、朝鮮出兵に参戦した大名としては唯一、恩賞として加増されることになります。

歴史街道 購入

2024年4月号

歴史街道 2024年4月号

発売日:2024年03月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

鬼島津戦記~剽悍無類!大敵に勝つ薩摩の意地

山内昌之(歴史学者/東京大学名誉教授)

文禄の役・碧蹄館の戦い~戦国の漢たちはなぜ迎撃を決断したのか

童門冬二(作家)

立花宗茂と第二次晋州城の戦い

『歴史街道』編集部
×