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長束正家~丹羽長秀に仕え、豊臣秀吉を支えた能吏の最期

2017年10月02日 公開

歴史街道編集部

 

長束正家が自刃

今日は何の日 慶長5年10月3日

慶長5年10月3日(1600年11月8日)、長束正家が自刃しました。豊臣政権の五奉行の一人で、兵站の差配や算術能力に長けていたことで知られます。

正家は永禄5年(1562)、水口盛里の長男として、近江国栗太郡長束村に生まれました。一方で、尾張国で生まれたともいわれます。通称は藤兵衛。 若い頃に諸国を放浪した後、織田信長家臣の丹羽長秀に仕えました。長秀の下で功績、忠勤抜きん出るものがあり、長秀の世子・鍋丸(後の長重)の補佐役に抜擢されています。

天正13年(1585)、丹羽長秀が没すると、長重は家臣が羽柴秀吉に抗する佐々成政に内通した疑いを理由に、越前・若狭・加賀二郡123万石から、若狭15万石に減封された上、重臣たちを秀吉に引き抜かれます。その中の一人に、正家がいました。しかし正家は最初、秀吉の招きに応じません。怒った秀吉は、長重を通じて正家を呼びつけ、「わしに背くか」と恫喝しました。しかし正家は動じず、「先代の越前守(長秀)がありし頃ならばともかく、若年の主が封国を召し上げられたのを見捨てて、殿下にお仕えできるはずがありません。そもそも今回の疑いは、主には全く身に覚えのなきこと。その疑いが解かれぬならば、命を奪われようとお仕えするわけにはまいりません」。正家の言葉に、秀吉は長重への疑いを解くことを約束し、代わりに正家は秀吉の奉公衆となります。

計数に長けた正家は太閤検地や豊臣家の蔵入地の管理で手腕を発揮し、九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵では、兵糧奉行として兵站の確保に尽力しました。天正14年(1586)には、本多平八郎忠勝の妹・栄子を正妻に迎えたといわれます。文禄4年(1595)には近江水口城5万石を拝領し、豊臣家の五奉行の一人となりました。慶長2年(1597)には12万石に加増されています。

秀吉没後は同じ五奉行の石田三成に与し、徳川家康に会津征伐中止を嘆願しますが、却下されます。そして水口城下を通過する家康を、正家が城に招いて謀殺するという噂が流れ、家康は水口城下を素通りして東に下りました。三成らの西軍が挙兵し、伏見城を攻撃すると、正家は配下の甲賀衆を使って城内の甲賀者を寝返らせ、攻略に貢献しています。関ケ原本戦では毛利秀元、吉川広家らとともに南宮山に布陣し、浅野幸長隊や池田輝政隊と銃撃戦を演じますが、吉川に阻まれて本戦に参加することができませんでした。やがて西軍が敗れて撤退する最中、敵中を突破してきた島津義弘隊と出会うと、家臣の一人を島津隊に送って、夜明けまで道案内をさせたともいいます。

水口城へ帰還する途中、山岡景友勢の攻撃を受けて敗走しますが、なんとか帰城。そこへ池田輝政、長吉隊が攻め寄せ、輝政は所領安堵を条件に降伏を勧めます。正家もそれならば、と城を出たところを捕縛され、城に入った池田隊によって重臣らも捕らえられました。正家と重臣らは、近江日野において切腹を遂げます。正家、享年39。

正室は臨月を迎えていたため家臣の家で出産し、産後の肥立ちが悪く、没しました。水口の善福寺には、水口城落城の際に将士が切腹した血がついたという「血天井」が保存されています。

iyashi

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