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松永弾正久秀~「戦国の梟雄」と呼ばれた男の意外な教養と革新性

2017年10月09日 公開

歴史街道編集部

松永久秀家紋
 

松永弾正久秀が爆死

今日は何の日 天正5年10月10日

天正5年10月10日(1577年11月19日)、松永弾正久秀が没しました。戦国を代表する梟雄の一人で、織田信長に二度も背き、最期は爆死を遂げたといわれます。

梟雄と呼ばれ、信長から常人にはなしえない「三悪事」を働いたといわれた久秀ですが、革新的な発想や感性の持ち主であり、茶の湯の造詣も深い教養人でもありました。今回は久秀の革新性と教養の高さなどに注目して紹介してみましょう。

久秀がどこの出身か、実はいまだによくわかっていません。出身地の候補として、山城、摂津、加賀、筑前、阿波、豊後、近江などがあり、これほど多岐にわたる説がある人物も珍しいでしょう。一説に、山城西岡説があります。現在の長岡京市を中心とする桂川の西側一帯で、俗説では北条早雲や斎藤道三もここの出身だといわれます。もちろん裏付けるものはありませんが、久秀が早雲、道三と同じ系譜の人間と受け取られていた証なのかもしれません。久秀は天文9年(1540)頃(あるいはもう少し以前か)に、三好長慶に右筆として仕えたといわれます。

天文11年(1542)には弾正と称して、三好の一軍を率いていたことが『多聞院日記』に記されています。永禄2年(1559)、河内守護代・安見直政を逐った三好長慶は、安見が大和へと逃れたため、久秀に追撃を命じました。 久秀は同時に大和の筒井氏、十市氏らを破り、信貴山城を修築して入ると、大和支配に乗り出します。さらに大和北端の眉間寺山に新たに城を築くことにし、眉間寺を破却して築城を始めます。永禄5年(1562)には棟上げ式が行なわれ、奈良の人々が見物に訪れました。イエズス会修道士ルイス・デ・アルメイダの永禄8年(1565)の書簡に、眉間寺山に築かれた多聞山城のことが触れられています。

「これ等の家(城)は塀及び塔(天守または櫓)と共に今日まで基督教国に於て見たること無き甚だ白く光沢ある壁を塗りたり」

城壁や塀が白漆喰で塗り固められていたこと、また塔のように見える天守もしくは櫓があげられていたことが窺えます。これが日本で初めてともいわれる天守(四重の櫓)であり、また城の周囲を長屋状の櫓が巡っていました。長屋の壁も白漆喰で塗られ、しかも随所に銃眼が穿たれていて、鉄砲隊を配置することができる実戦的なつくりでした。いわゆる多聞櫓であり、久秀の多聞山城で初めてつくられたので、そう名づけられたといわれます。

そして、この眉間山上に現われた白亜の城は、奈良平野の遠くからも望見することができました。天正2年(1574)に多聞山城を検分した織田信長が衝撃を受けたのは、おそらくその点であったでしょう。 侵攻してきた敵と戦う城というよりも、自らの力を誇示するための「見せる城」であったのです。信長はさっそく多聞山城の意匠、造形を応用して、安土城を築きました。久秀の革新性、先進性をここに見出すことができます。

永禄7年(1564)に主君の三好長慶が家中の内訌に苦しみながら没すると、久秀は翌年、三好家の跡を継いだ義継らとともに将軍足利義輝を殺害。 永禄10年(1567)には筒井順慶、三好三人衆との戦いで東大寺が炎上し、大仏が焼け落ちました。そんな久秀も永禄11年(1568)に信長が足利義昭を擁して上洛すると、速やかに信長に拝謁して配下となり、大和一国を安堵されます。久秀の先見性、的確な状況判断が窺えます。その際、足利義昭は実の兄の仇であるといきり立ちますが、信長はこれを抑えました。

一方、久秀は千利休の師・武野紹鴎に師事した、利休の兄弟弟子にあたる一流の茶人でもありました。 永禄元年(1558)には北向道陳、山上宗二、今井宗久ら高名な茶人と茶会を催し、そこで秘蔵の「九十九茄子」の茶入を披露しています。永禄6年、同8年には多聞山城内で茶会を開き、8年には松屋久政、若狭屋宗可、千利休らが参加者に名を連ねました。その場にはこれも秘蔵の「平蜘蛛の茶釜」が据えられていたはずです。当代一流の文化人たちと交流し、茶会を楽しむ久秀には、相当奥深い教養があったことが窺われるでしょう。茶の湯という新たに勃興しつつある文化をいち早く堪能したのも、彼の革新性ゆえでしょうか。 関ケ原合戦の折、久秀の宿敵であった筒井順慶にかつて仕えていた嶋左近は、「いまや(松永)弾正や明智光秀と並ぶような果断な武将は一人もいない」と嘆いたといいます。武将としても教養人としても一流の久秀。やはり尋常一様の人物ではなかったようです。

iyashi

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