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新渡戸稲造と世界的ベストセラー『武士道』

2017年10月14日 公開

歴史街道編集部

新渡戸稲造
新渡戸稲造
 

われ太平洋の橋とならん…新渡戸稲造が没

今日は何の日 昭和8年10月15日

昭和8年(1933)10月15日、新渡戸稲造が没しました。世界的ベストセラー『武士道』の執筆者であり、また国際連盟事務次長を務めた国際人としても知られます。

稲造は文久2年(1862)、盛岡藩士・新渡戸十次郎の三男に生まれました。明治4年(1871)、10歳の時に叔父・太田時敏の養子となって上京、東京英語学校などで学びます(後に新渡戸姓に戻ります)。時敏は盛岡藩の生粋の武士で、戸田一心流の剣とともに、武士の心構えを稲造に伝えたといわれます。稲造が『武士道』の冒頭に「叔父太田時敏にこの小著をささぐ」と記したのは、武士道を時敏から授かったという思いが強かったからでしょう。

その後、札幌農学校の官費生となって、佐藤昌介や内村鑑三らと出会い、キリスト教の洗礼を受けます。農学校の学生時代は教授と議論になれば殴り合いも辞さず、後年の穏やかなイメージとは裏腹に、内には強い意志を秘めていました。卒業後、明治16年(1883)には東京の成立学舎で英語を教えながら、東京大学専科生となって英文学、経済学、統計学を学びました。英文学を学ぶ動機について稲造は「第一に許されるならば、太平洋の橋になりたい。日本の長所を西洋に紹介し、西洋の長所をどしどし日本に輸入するその橋渡しの役をしたい。第二には英語を学んで泰西(西洋)の長所を取り、日本にはまだ形が備わっていない農学という学問を起こしたい」と語っています。

そして東京大学での学業に不足を覚えた稲造は、翌明治17年、渡米してジョンズ・ホプキンズ大学で3年間、国際法や経済学などを学びました。明治20年(1887)、26歳で札幌農学校助教授になると、ドイツに留学してアメリカでは得られなかった農政学や農業経済学などを学び、札幌農学校では農政学、経済学、英文学、ドイツ語などを教えました。この頃、アメリカで出会ったメリー・エルキントンと結婚、さらに夫人と創設した遠友夜学校や北鳴学校の校長も務めるなど多忙な日々を送りますが、心身を酷使したためか、やがて神経衰弱になってしまいます。

明治32年(1899)、38歳の稲造は妻とともにカリフォルニアのモントレーで長期静養しながら、日本人の精神を世界に伝えるための著作を執筆していました。きっかけはベルギーの法学者との会話の中で、「日本の学校には宗教教育がないというが、それではあなた方はどのようにして道徳教育を授けるのですか」と問われて返答に窮し、愕然となったことです。日本人は善悪や正義の観念をどうやって学んでいたのか…考えた末に稲造が得た結論が武士道でした。幼少の頃、生き方の心構えを叔父・太田時敏に叩き込まれたことに思い至ったのです。

そこで稲造は日本人の道徳観、倫理観、美学などを西洋人にも深く理解してもらうために、世界の歴史や哲学、文学、騎士道とも比較した上で、日本人固有の考え方を「義または正義」「礼儀」「名誉」「忠義」「克己」など17章に分けてまとめた『武士道 日本の魂』を英文で上梓しました。明治33年(1900)、フィラデルフィアの出版社から発行された同書は、日清戦争勝利や北清事変における日本人の見事な振る舞いもあって大きな反響を呼び、世界各国で翻訳されるに至ります。明治37年(1904)の日露戦争時に米大統領セオドア・ルーズベルトが『武士道』を読んで感銘を受け、アメリカが日露講和に一役買ったのはよく知られるところです。

『武士道』を出版した翌年の明治34年(1901)、稲造は台湾総督府の民政長官・後藤新平の再三にわたる要請に応えて台湾に赴き、民政局殖産課長、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長を歴任。製糖に着目した稲造は、台湾総督・児玉源太郎に「糖業改良意見書」を提出し、品種改良、耕作方法、加工法の改善に取り組んだ結果、明治33年に3万トンだった産糖は、10年後には160万トンとなり、台湾を世界有数の産糖地に押し上げています。

大正8年(1919)、58歳の稲造は後藤新平の誘いでともに第一次世界大戦後の欧州視察に出かけたところ、図らずも国際連盟事務次長を託されます。当時の欧州各国は日本人を好戦的な国民ではないかと偏見をもっていましたが、自らが記した武士道に則る稲造の行動と手腕は、まず国際連盟の職員の意識を180度変えました。「日本人にも、西洋の紳士が足元にも及ばぬような紳士の中の紳士がいる」というものです。稲造は事務次長として8年務め、その間にアインシュタインやキュリー夫人を委員とする知的協力委員会の立ち上げや、バルト海に浮かぶオーランド諸島問題を平和裏に解決。「ジュネーブの星」と称されました。

しかし晩年の稲造が直面したのは、対立を深めていく日米関係でした。稲造が新聞記者にオフレコで「日本を滅ぼすものは共産党か軍閥である」と語ったことが紙上に掲載され、軍部やそれに迎合するマスコミから突き上げを喰らいます。一方、アメリカの世論は中国に好意的で、日本を軍国主義化の一途をたどっていると決め付けました。この事態に71歳の稲造は誤解を解き、融和をもたらすべく自らアメリカで100回以上の講演を行ない、協調に努めました。時に「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」と米国人の友人からも背を向けられましたが、「国を思ひ世を憂うればこそ何事も 忍ぶ心は神ぞ知るらん」の歌を詠み、困難に立ち向かいます。そして昭和8年、カナダで開催された太平洋会議に出席した折に倒れ、同地で永眠しました。享年72。

真の国際協調とは何か、そのためにどれほどの努力と信念が必要であるのか、新渡戸の生涯は私たちに多くのことを語りかけてきます。

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