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明智光秀が家臣や領民に見せた思いやり

2017年10月16日 公開

歴史街道編集部

西教寺
西教寺(滋賀県大津市坂本)
 

仏のうそをば方便と云、武士のうそをば武略と云。土民百姓はかはゆき事也

明智光秀は、家臣を大切に扱った。

例えば、天正元年(1573)、一向一揆勢が籠もる今堅田城(滋賀県)を攻め落とした際、家臣の河嶋刑部丞に送った戦功を賞する書状の中で、手の傷を労っている。

戦死した18人の家臣を弔うため、坂本の西教寺に供養米の寄進もしている。いずれも、当時としては珍しいことだ。

光秀は西教寺の檀徒となり、同寺には、光秀やその妻、また一族の墓がある。総門は、光秀が築いた坂本城の城門を移築したものだとされている。

広く知られた光秀の言葉に、「仏のうそをば方便と云、武士のうそをば武略と云。土民百姓はかはゆき事こと也」というものがある。これは江戸時代初めに江村専斎の談話を記録した『老人雑話』に載っており、「仏や武士の噓が許されるのだから、年貢をごまかす百姓の噓など可愛いものではないか」という意味だとされる。家臣だけでなく、領民のことも大切にしたことが窺える。

ただ、ルイス・フロイスが『日本史』に「計略と策謀の達人であった」という光秀評を残していることを念頭に置くと、「武士のうそをば武略と云ふ」という部分も注目される。

良き主君であり、良き領主であった光秀だが、こんなエピソードもある。江戸時代の藤井懶斎が著わした『閑際筆記』に記されているものだ。

信長を討った数日後、京の人が光秀に粽を献上した。すると光秀は、包みの葉を取らずに食べた。それを見た人が、「これほど動揺しているとは、この人は大君の器ではない。天下を保つことはできないだろう」と言った、という。

『林鐘談』という俗書では、粽を葉ごと食べたのは、本能寺へ出陣する前、愛宕神社を参詣した時のことだとされている。江戸時代後期の学者・頼山陽は、愛宕神社での光秀を「本能寺」という漢詩に詠んでおり、その中に「茭粽手に在り茭併せて食らう」とある。

ちなみに、この漢詩には、「吾が敵は正に本能寺に在り」という有名な台詞も出てくる。

粽の逸話は、本能寺の変の結末を知った上での創作の可能性もあるが、リーダーとして、光秀は、果たしてどうだったのか。判断が難しいところである。

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