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明治6年の政変と征韓論~西郷隆盛の真意はどこにあったのか

2017年10月22日 公開

歴史街道編集部

西郷隆盛
 

明治6年の政変。征韓論に端を発し、西郷隆盛、板垣退助らが下野

今日は何の日 明治6年10月23日

明治6年(1873)10月23日、征韓論に端を発する政府内の対立で、西郷隆盛、板垣退助らが下野した、明治6年の政変が起こりました。明治初期の一大政変として知られます。

西郷隆盛が唱えたのは征韓論ではなく、遣韓論であったといわれます。そこで 今回は、西郷が太政大臣の三条実美に提出した「始末書」の内容などを中心に、取り上げてみます。

そもそも朝鮮問題がなぜ起こったのか。徳川幕府と朝鮮国は、友好的な関係を保っていました。維新後、明治元年(1868)12月、明治政府は使節を朝鮮に派遣し、徳川幕府が廃止されて、王政復古に基づく新政府が樹立されたことを伝えます。あわせて、従来通りの友好親善を求める国書を渡そうとしました。ところが朝鮮側は、国書に用いられている文字や印章が旧例と違うことなどを理由に、国書の受理を拒否します。明治政府は当惑しつつも交渉を続け、旧例と違うと朝鮮側が指摘した部分を削除するなどして、事態の収拾を図りますが、うまくいきません。

この問題の根幹には、朝鮮側の「小中華主義」と攘夷思想がありました。 歴史的に中国王朝を宗主国とする朝鮮は、大中華の文明を吸収した自分たちが、そうではない日本よりも上位に位置すると考え、さらに撃ち払うべき西洋を見習い始めた日本人を蔑んだのです。これに対し、朝鮮を非難する声も日本国内に起こりますが、政府は隠忍譲歩を続けました。ところが明治6年、釜山に江戸時代から置かれていた日本公館の門前に、「日本人は西洋の物真似をする恥ずべき人間であり、日本は無法の国」と記した文書が掲げられます。

ここに至り、政府の面々は激昂しました。 外務卿・副島種臣は「わが使節に数々の非礼と侮辱を与えた上、無法の国とまで罵倒したことは、日本への敵対行為以外の何物でもなく、わが国が戦争に訴える大義名分にすらなる」とまで断言しています。実際、閣議においても、「直ちに釜山へ出兵すべし」と板垣退助が主張すると、他のほとんどの参議も賛成しました。 ところがただ一人、これに異議を唱える参議がいました。それが西郷隆盛です。西郷はこう主張します。

「朝鮮政府の無礼は許し難いが、今直ちに出兵すると、日本は侵略を企てていると朝鮮は猜疑するであろう。日本はまだ、尽くすべき手立てをすべて尽くしたとはいえない。まず責任ある全権大使が兵を伴わずに赴き、礼を厚くし、道理と公道を以て説得にあたり、朝鮮政府の反省を促すべきではないか」

そして西郷は、その全権大使としてぜひ自分を派遣してほしいと願いました。板垣ら征韓論者も西郷の論に服し、外務卿の副島も、全権大使の役を快く西郷に譲ります。こうして同年8月17日、閣議は西郷の遣韓大使を決定し、太政大臣三条実美は明治天皇に奏上して、ご裁可を受けました。ただし派遣は、岩倉具視や大久保利通ら、欧米視察中の使節団の帰国後となります。

しかし岩倉、大久保は帰国後、内治優先を理由に、西郷の遣韓大使に真っ向から反対します。10月15日の閣議では、西郷の遣韓大使を再び決定しますが、すでにご裁可済みの案件への議論や反対は、本来はあり得ないはずのものでした。岩倉や大久保が反対した理由は内治優先というより、西郷が赴いて朝鮮で殺されれば、日本は戦争に踏み切らざるを得す、しかし国際情勢的に現状でそれは望ましくなく、また対外戦争を行なう国力も備わっていないという判断があったとされます。これに対し、西郷は自分の思いを「始末書」にまとめて、三条に提出しました。おおむね次のような内容です。

「維新以来、かの国はわが国にしばしば無礼を働き、互いの通商もうまくいかず、釜山の公館の日本人も圧迫を受けています。しかし、軍隊を派遣するのはよくありません。両国が戦うことにでもなれば、最初の趣旨(友好親善)に相反することになります。 ここは公然と一国を代表する使節を派遣するのが至当と考えます。かの国が戦争の構えで国交を拒む心底が明白にならない限り、わが国はできる限りの努力をしなければ、人事を尽くさざる悔いが残るでしょう。 暴挙の恐れがあるといって、戦いの準備をして使節を派遣するのは、礼儀に反します。ぜひ交誼を厚くするという当初の趣旨を貫徹したいものです。その上で万一、かの国が暴挙に及ぶのならば、そこではじめてかの国の非道不正を世界に訴え、罪を問うべきでしょう」

可能な限りの外交努力によって、朝鮮との交誼を実現させようという西郷の姿勢は、一般にいわれる征韓論などではないことが、ここからも明らかです。しかし、西郷の遣韓大使は実現しませんでした。病に倒れた三条の代わりに太政大臣となった岩倉が謀略によって、閣議で二度決定し、ご裁可まであった遣韓を覆したのです。この顚末に西郷は深い失望を覚え、中央政界から去り、板垣ら多数の参議も下野することになりました。おそらく西郷は、自分が出向けば朝鮮を説得できる自信があったのでしょう。もちろん出向いた結果、どうなったかはわかりませんし、岩倉や大久保たちの危惧もわからないわけでもありません。ただ西郷が失望したのは、遣韓大使が実現しなかったことよりも、阻止しようとした岩倉や大久保たちの「謀略を用いるやり方」にあったのではないか、そんな気もします。

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