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シブヤン海の戦い~大和艦長・森下信衛、鮮やかな操艦

2017年10月24日 公開

歴史街道編集部

戦艦大和

レイテ沖海戦、シブヤン海の戦い

今日は何の日 昭和19年10月24日、

昭和19年(1944)10月24日、レイテ沖海戦におけるシブヤン海の戦いが行なわれました。栗田健男中将率いる第一遊撃部隊(栗田艦隊)にアメリカ軍が航空攻撃を仕掛け、戦艦武蔵を沈めたことで知られます。武蔵の最期については以前にもご紹介しましたので、今回は姉妹艦で、栗田艦隊の旗艦を務めていた戦艦大和のこの日の戦いぶりについて少しふれてみたいと思います。

昭和19年10月、アメリカ軍のフィリピン上陸に対し、連合艦隊は「捷一号作戦」を発動しました。この作戦は小沢治三郎指揮の機動部隊が米機動部隊を北方におびき寄せた間に、栗田艦隊、西村艦隊(西村祥治中将指揮)、志摩艦隊(志摩清英中将指揮)がレイテ湾に突入し、敵輸送船団を撃滅するというものです。10月22日、栗田艦隊はボルネオ島ブルネイを出港、翌日早朝に敵潜水艦の雷撃を受けて、栗田長官座乗の旗艦・重巡愛宕が撃沈されますが、司令部は戦艦大和に旗艦を移して、レイテを目指しました。

24日未明、ミンドロ島東方のシブヤン海に差しかかった頃から、敵航空機の跳梁の気配が高まります。大和に新規に取り付けられていた電探(レーダー)が、敵機の動きを捉えていました。しかし栗田艦隊は味方航空機の掩護を期待できず、輪形陣を布く程度しか打つ手はありません。

午前10時25分、アメリカ軍の第一次攻撃隊が来襲、栗田艦隊も対空砲火で応戦します。敵の主目標は、当然のことながら、最も大物である大和、武蔵でした。とりわけ攻撃は武蔵に集中します。11時38分、第二次攻撃隊が来襲。戦艦武蔵はこの時、主砲を放ったともいいます。しかし3本の魚雷を受け、爆弾の直撃を2発受けました。普通の艦であればすでに致命的な被害ですが、武蔵は速度を落とすこともなく進み続けていたのはさすがです。

一方、この時、戦艦大和では、来襲する敵攻撃隊の雷撃に対し、森下信衛艦長が鮮やかな操艦を見せます。森下は日本海軍屈指の操艦の名手といわれた男ですが、その実力はシブヤン海で遺憾なく発揮されました。迫り来る敵の雷撃機、爆撃機に対し、艦橋最上部の防空指揮所において、自ら操舵輪を握って、次々に魚雷を回避してのけたのです。しかもこの時に森下は、露天にもかかわらず防弾チョッキもつけず、悠々とくわえ煙草で、次々に大和に迫る魚雷を、数メートルでかわし、投下された爆弾も数メートルでかわす離れ技を見せました。当時、艦隊参謀長として大和の艦橋にいた小柳冨次少将も、森下の姿に感嘆した一人です。鉄帽もかぶらず、くわえ煙草で奮戦する艦長をこう記しました。

「余裕しゃくしゃくとして微笑みすらたたえながら、いささかも興奮の色もなく、落ち着きはらって自信たっぷりであるように映った」(小柳冨次『栗田艦隊』)。

6万トンを優に超す巨大艦を、手足の如く操るというのは世界広しといえどもそうそういないでしょう。しかし森下は「無心になると、大和が駆逐艦同様に小さく感じられて、自由に操艦できた」と自ら語っています。かくして五次の及ぶ敵攻撃機の猛攻の末、さしもの不沈艦武蔵も致命的な被害を受けて沈み行く中、大和は3発の爆弾を受けるに留まりました。もちろん敵の攻撃を武蔵が一手に引き受けるかたちになったことが大きかったのですが、あまりにも対照的です。ちなみに武蔵は被弾17、被雷20前後でした。

レイテ沖海戦ではほとんどいいところのない連合艦隊ですが、この森下の水際立った操艦は、鮮やかな印象を残しています。そして姉妹艦・武蔵の最期に無念の思いを抱く大和乗組員たちは、この翌日に、大和が初めて敵艦隊に主砲を撃つことになるサマール沖海戦を迎えることになります。

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