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中島飛行機創始者・中島知久平~民間航空工業の魁となる

2017年10月29日 公開

歴史街道編集部


 

日本の飛行機王・中島知久平が没

昭和24年10月29日

昭和24年(1949)10月29日、中島知久平が没しました。中島飛行機(後の富士重工業)の創始者として知られます。

知久平は明治17年(1884)、農業の中島粂吉の長男として、群馬県新田軍尾島村に生まれました。明治36年(1903)に海軍機関学校に入学、明治41年(1908)に機関少尉に任官します。その後、順調に昇進を重ね、明治44年(1911)に海軍大尉に任官。翌年に海軍大学校を卒業すると、アメリカに出張し、日本人で3人目の飛行士免状を取得しました。

4年後の大正5年(1916)には、欧州へ航空事情の視察に出かけます。そしてその直後、海軍を退役しました。日本の将来のために、民間の航空工業の魁となることを目指したのです。

「海軍における自己の既得並びに将来の地位名望を捨てて野に下り、飛行機工業民営起立を劃(かく)し、以てこれが進歩発展に尽くす」

知久平は自らそう語っています。

大正6年(1917)、群馬県太田に「飛行機研究所」を設立、2年後に「中島飛行機製作所」に改称しました。海軍士官出身といえばスマートなイメージですが、知久平は大きな体を油に汚れてすり切れた作業着に包んで陣頭指揮をとり、従業員たちの信頼を得ていきます。知久平は設計室の隣の小部屋を自分の居室として寝泊りし、生活のすべてが飛行機作りでした。夜遅くまで従業員の残業が続けば、知久平は「腹が減ったろう」と町の汁粉屋に電話して、何十人分も出前させることもあり、また普段の言葉遣いも柔らかく、決して上から物を言うような態度は示さなかったといいます。

大正9年(1920)には陸軍から70機、海軍から30機の発注を受け、事業も軌道に乗り始めました。知久平は毎年、社員を連れて花見を行ないましたが、その際、トラックに山車やお囃子を乗せ、職場ごとに趣向を凝らした飾りつけをして、大いに盛り上がったといいます。しかもその日のために、バスなどない当時、知久平は関東一円からトラックや乗用車を50台も集め、それらが列をなして田舎道を花見に向かう光景は壮観の一語でした。

昭和5年(1930)、知久平は衆議院議員に立候補し当選。翌年には中島飛行機製作所の所長の座を弟・喜代一に譲り、自らは営利企業の代表をすべて返上します。当時の日本の危機的状況に「国家のために働きたい」という思いをより強く抱いたからでしょう。知久平が所長から退いた年に、荻窪の中島飛行機東京工場に入社したのが、北海道大学機械科を卒業した小谷武夫でした。知久平は小谷の才能を見抜き、好きなエンジン開発を自由にやらせます。やがて小谷が生み出したのが、一時代を画する「栄」エンジンでした。海軍の零式艦上戦闘機や、陸軍の一式戦闘機に使用されたことであまりにも有名です。

昭和12年(1937)、九七式戦闘機が陸軍に制式採用。その翌年、政友会の総裁代行委員であった知久平は、第一次近衛内閣の鉄道大臣に就任しました。さらに昭和14年(1939)には政友会革新同盟の総裁に就任します。

アメリカの工業力を知る知久平は、日米戦争には消極的でした。しかし昭和16年(1941)には中島製の一式戦闘機が陸軍に制式採用されて「隼」と名づけられ、すでに東洋一の航空機メーカーになっていた中島飛行機も否応なく巻き込まれていくことになります。日米開戦後、緒戦の勝利に国民はおろか軍部までが舞い上がる中、知久平は「アメリカが長距離爆撃機を開発したら日本は焼け野原になる」と警鐘を鳴らし、長距離爆撃機「富嶽」の開発を呼びかけますが、軍部は昭和19年(1944)まで耳を貸さず、結果、手遅れとなります。代わりに昭和19年に中島製の四式戦闘機が陸軍に制式採用されて「疾風」と名づけられますが、もはや頽勢挽回のできる戦況ではありませんでした。

昭和20年(1945)、知久平は終戦直後の東久邇宮内閣で軍需相、後に商工相を務めますが、GHQによりA級戦犯指定を受けます。2年後に指定は解除されますが、心身を酷使していたためか、昭和24年、脳出血で急死しました。享年65。

知久平の口ぐせは次のようなものでした。

「俺の財産は土地でも金でもない。一人あたり何万という価値を持つ技術者を、40人も50人も持っている。それが唯一の財産だ。その財産は放っておいてもどんどん価値が増えるのだよ」

また昭和の初めに中島で機体空力設計をしていた糸川英夫(戦後、日本のロケット開発の第一人者)は、いみじくも「組織の三菱、人の中島」と中島飛行機の社風を語ったといいます。

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