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織田勘十郎信行~信長に反逆して殺された実弟

2017年11月01日 公開

歴史街道編集部

清州城

織田信長が弟の勘十郎信行を暗殺

今日は何の日 弘治3年11月2日

弘治3年11月2日(1557年11月22日)、織田信長が弟の勘十郎信行を清須(清洲)城内で暗殺しました。信長の尾張統一の過程で、反信長派の旗頭とされた叛逆心の強い弟を倒した事件です(永禄元年〈1558〉とする説もあります)。

清須城といえば今、映画「清須会議」で話題になりました。その会議から遡ること25年。当時の信長はまだ、尾張統一に向けて一歩一歩進んでいたところでした。信行は信勝の名でも知られ、他に達成、信成と書かれた文書もあります。信成といえば氷上で活躍した織田選手を思い浮かべますが、信行の他に信長の従兄弟にやはり信成がおり、織田家においては由緒あるお名前のようです。それはともかく、今回は通称の勘十郎でご紹介しましょう。

勘十郎は信長のすぐ下の弟で、母親は信長と同じ土田(どた)御前です。 よく知られるエピソードとして『信長公記』に記された、父・信秀の葬儀の際の兄弟の対比があります。折り目正しく、肩衣袴姿で貴公子然として参列した勘十郎に対し、袴もつけず茶筅髷姿で現われた信長は、焼香の際、抹香をつかむや「くわっ」と叫んで仏前に投げつける始末。「やはり後継者は勘十郎様の方がよい、何といっても御しやすい」、などと考える家臣たちが現われても不思議ではありません。何しろ下剋上が当たり前の時代です。父・信秀の死後、勘十郎は末盛(末森)城を譲られ、本拠とします。また老臣として柴田勝家、佐久間次右衛門らを付けられました。

弘治元年(1555)のこと。弟の秀孝が、守山城主の叔父・織田信次の家臣に射殺される事件が起こります。これに対して信長は、不用意に単騎で行動した秀孝にも非があるとしましたが、勘十郎は怒りに任せて守山に攻め懸け、城下に火を放ちました。このあたり、自分は信長の指図は受けないというアピールと、弟が殺されたら兄が仇を討つのは当然という、家臣たちの受けをねらったパフォーマンスのように見えなくもありません。信長が尾張を見ていたのに対し、勘十郎は自分の評判を意識していたようです。

翌年、信長の後ろ盾となっていた斎藤道三が討死すると、信長の筆頭家老であった林秀貞までもが織田家当主として勘十郎擁立に動き、弟の林美作守や柴田勝家と組んで、信長に叛旗を翻しました。一方の信長は慌てず、勘十郎を擁立した軍勢を稲生の戦いにおいて撃破します。家臣らに振り回されることなく、きっちりと実力を示してみせた信長はさすがでした。敗れた勘十郎は母親の土田御前や柴田を伴って清須城を訪れ、侘びを入れて信長に許されています。この一連の顚末で、柴田勝家は信長の実力を認め、主君と仰ぐようになりました。

しかし勘十郎は、兄に従う気にはなれなかったようです。尾張上四郡の守護代で岩倉城主の織田信安に接近して、再び謀叛を企てました。これに対し勘十郎から心が離れていた柴田勝家は、不穏な動き察知して信長に報せます。そして弘治3年(1557)、もしくは永禄元年(1558)、病と称する信長の見舞いに勘十郎が清須城に赴いたところを、一説に池田恒興らによって討たれました。信長にとっては、尾張統一に向けての苦い一歩であったことでしょう。

尾張統一の過程で、信長の織田家だけでなく、守護代織田大和守信友なども含めて、多くの者が血を流した清須城。その場所で、後に柴田勝家や池田恒興らが集い、織田家の行く末を決める清須会議を行なったことを思うと、何やら因縁めいたものも感じてしまいます。

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