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なぜ土佐藩は「大政奉還」を成し遂げられたのか?

2017年11月10日 公開
2023年10月04日 更新

林真理子(作家)×尾﨑正直(高知県知事)

 

なぜ、土佐は多くの志士を生んだのか?

 西郷は、龍馬が大好きでした。『西郷どん!』にも書きましたが、龍馬の新婚旅行について行って、一緒に温泉に入っているくらいです。龍馬は、それくらい魅力的な人だったんでしょうね。

尾崎 龍馬は迷惑したかもしれませんね(笑)。

 私も、龍馬に魅了されている一人です。今も憧れ続けています。

 初めて明確に龍馬を意識したのは、NHK大河ドラマで『勝海舟』(1974年放送)をやっているのを観た時です。龍馬が暗殺されるシーンがあって、血だらけになるんです。子供心に怖かったですね。それから、龍馬の銅像を見るたびに、「殺されてかわいそう」と思っていました。

 その後、中学生の時に、友人から「ぜひ読んだらいいよ」と勧められて、『竜馬がゆく』を読みました。

 中学生で!?

尾崎 龍馬が好きな方には、そういう方も多いんじゃないでしょうか。

 はじめの3巻を読むと、龍馬がいかに立派な人間かということがわかります。身分制があるにもかかわらず、人を人として尊重する。そして、巻を重ねるにつれて、今度は、彼がいかに政治的に優れているかがわかります。

 今や、「高知といえば龍馬」で、空港の名前も「高知龍馬空港」になっているほどですが、それは司馬さんの『竜馬がゆく』が世に出てからだそうですね。一つの小説がそれだけの影響力を持つというのは、すごいことだと思います。

 それ以前は、高知の偉人といえば板垣退助だったようですが、知事が子供だった頃はどうでしたか?

尾崎 東京から来られた方には、「高知といえば板垣だね」とおっしゃる方が多かったです。100円札の肖像になっていた影響が大きい気がします。

 ただ、私は昭和42年(1967)生まれなので、物心がついた頃には、もう『竜馬がゆく』をテレビで放送していました。

司会 幕末維新博では、高知県全域でイベントが行なわれています。それだけ高知県は数多くの志士を輩出したということだと思いますが、その背景には何があるのでしょうか?

尾崎 土佐藩を脱藩した第一号である吉村虎太郎は、庄屋の息子でした。裕福な暮らしをしていたのに、それを捨てて脱藩した。なぜ、そんなことをしたのか。これは不思議ですね。

 中岡慎太郎だって、そうです。ゆずは高知の名産品になっていますが、その栽培を奨励したのは、庄屋だった、若き日の中岡です。

 当時の土佐の人にとっては、江戸湾に黒船が来ようが来まいが、関係なかったでしょう。それまで通りの暮らしができたはずなのに、志を持った若い人たちが、なぜか大勢現われました。

 幕末維新博の会場の一つである吉村虎太郎邸(津野町)は、ぜひ足を運んでいただきたい場所です。ロハスの極みのような暮らしをしていたことがわかります。中岡慎太郎の生家(北川村)も、同じく、ロハスの極み。「こういうところで志を立てたんだな」ということを、感じていただきたいですね。

 薩摩藩だと郷中、水戸藩だと弘道館というように、教育のシステムや機関がありましたが、土佐藩はどうだったのでしょうか?

尾崎 朱子学が重視されていた、などの背景があったとは言われています。けれども、やっぱり不思議ですね。

 歴史家の加来耕三先生によると、アヘン戦争でイギリスが清(中国)に勝ったのは、イギリスの軍事力が優っていたからではないんだそうです。総兵力は、清のほうがイギリスよりもずっと多かった。しかも、交戦したのは、イギリス軍の中でも一部だけです。それなのに清が負けたのは、多くの清の人たちが、アヘン戦争を我が事だと思わなかったからだということです。

 日本の場合は、清と違って、黒船が来たことを、関係がないはずの地方の人間までもが、我が事として捉えたわけです。

 島津久光の行列を横切ったイギリス人が斬られた生麦事件によって、「日本は清とは違う」とイギリスが認識したという学者もいますね。

尾崎 攘夷運動というのは、まったく無駄だったわけではないと思います。攘夷運動のおかげで、日本は欧米列強にナメられなかったのですから。

 攘夷運動の急先鋒だった長州藩は、一方で、伊藤博文らをヨーロッパに留学させています。こういう二枚舌が、幕末という時代をわかりにくくしているように思います。

尾崎 この高知城歴史博物館での、前回の企画展に展示されていたのですが、大名たちに攘夷派かどうかを尋ねたアンケート調査みたいなものがあるんです。それを見ると、藩主レベルでは、ほとんどが攘夷は無理だと考えていました。

 でも、庶民レベルでは、攘夷派が多かった。そのエネルギーを、どこに向けるか、というのが問題でした。

 上手い藩は、攘夷を掲げることで、そのエネルギーを倒幕のために使い、幕府が倒れたとたんにコロッと開国に変わったのです。

 肥前の佐賀藩はどうでしょうか。薩長土肥と並び称されていますし、「佐賀藩が反射炉を作ったんだから、薩摩藩でもやろう」と島津斉彬が言ったくらい、先進的でした。ただ、いざという時にグズグズして、出遅れてしまいました。

尾崎 佐賀県知事は山口祥義さんとおっしゃって、「平成の薩長土肥連合」にも加わっていただいています。仲良くさせていただいていますが、彼もよくそう言っています。佐賀藩は理系で、後々になってから役に立つことをしているんですよね。

 維新の源流となったのは水戸学ですが、水戸藩では保守派と改革派の激しい抗争が起きて、多くの人が殺されてしまいました。そのため、新政府にほとんど人材を出していません。土佐藩では、どうしてそんなことが起こらなかったのでしょうか?

尾崎 データを持っているわけではありませんが、土佐藩の志士の死亡率は高かったんですよ。というのは、薩長が組織で動いたのに対して、土佐は個人で動いたからです。

 個人で動いている土佐の人たちを、何とか組織にしようとしたのが、龍馬の海援隊であり、中岡の陸援隊です。「援」というのは、土佐藩を援けるという意味ですから。もちろん、海援隊には経済的な目的もありますが。

 日本初のカンパニーですね。『西郷どん!』にも、龍馬が「カンパニーをつくる」と西郷に話すシーンを書きました。

尾崎 龍馬が生きていれば、もっと交易を重視した、富国強兵の「富国」のほうを重視した国になったのではないか、と思いますね。

 

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著者紹介

尾﨑正直(おざき・まさなお)

高知県知事

林 真理子(はやし・まりこ)

作家

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発売日:2024年04月06日
価格(税込):840円

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河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)
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