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山田顕義の生涯~西郷隆盛に「小ナポレオン」と賞された用兵の天才

2017年11月10日 公開

歴史街道編集部

山田顕義

用兵の天才にして法典伯・山田顕義が没

今日は何の日 明治25年(1892)11月11日

明治25年(1892)11月11日、山田顕義が没しました。松下村塾出身の長州藩の志士で、天才的な用兵から「日本の小ナポレオン」と呼ばれ、日本大学、国学院大学の創立者としても知られます。 

山田顕義、藩校明倫館、松下村塾に学ぶ

顕義は弘化元年(1844)、長門国萩の郊外、椿郷東分村に長州藩大組士・山田顕行の長男に生まれました。通称は市之允。長州の藩政改革を行なった村田清風は顕義の祖父の兄にあたり、また吉田松陰の兵学の師・山田亦介は伯父にあたります。

安政3年(1856)、13歳で松本村の新山直衛塾に学び、また藩校明倫館で馬木勝平より柳生新陰流剣術の教授を受けました。安政4年(1857)秋、伯父の山田亦介の手引きで、吉田松陰が主宰する松本村の松下村塾に転じます。14歳の顕義は村塾では年少組でした。安政5年正月、顕義が年始の挨拶で松陰を訪ねると、「今の時節はのんきに正月の挨拶をしている場合ではない」と松陰に諭された話が伝わります。顕義が松陰に接することができたのは一年余りに過ぎませんが、松陰は顕義に扇に詩を揮毫して贈りました。

「与山田生 立志は特異を尚(とうと)ぶ 俗流は与(とも)に議し難し 身後の業(わざ)を顧(おも)わず 且つ目前の安きを偸(ぬす)む 百年は一瞬のみ 君子素餐(そさん)するなかれ」
(志を立てるにおいては人と異なることを大切にせよ。世俗の意見に惑わされたり、死後の業苦を案じてはならない。目先の安楽は一時のもの。百年の時は一瞬に過ぎない。君はどうかいたずらに時を過ごすなよ)

松陰が教えてくれた立志を、顕義は生涯大切にしました。

四境戦争、戊辰戦争、西南戦争と転戦

文久2年(1862)、19歳の顕義は上洛し、毛利家世子・定広の警護を務めるとともに、村塾の先輩である高杉晋作、久坂玄瑞、品川弥二郎らと攘夷の血判書に署名。翌年の8月18日の政変では7人の公卿とともに、長州へと落ち延びます。ちなみに同年に但馬生野で挙兵して落命した河上弥一は、顕義の再従兄でした。その後、顕義は大村益次郎の普門寺塾で、西洋兵学を学びます。大村から西洋兵学とともに合理的思考を吸収したことは、用兵だけでなく、その後の顕義の生き方をも変えたといえるかもしれません。元治元年(1864)の禁門の変、四国艦隊との下関戦争、そして高杉晋作による功山寺挙兵にも参加し、慶応2年(1866)の第二次長州征伐においては、軍艦丙寅丸の砲隊長に任じられ、高杉とともに幕府艦隊に夜襲をかけて撃退しました。さらに芸州口の戦いでも活躍します。

慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いに勝利すると、顕義は陸軍参謀兼海陸軍参謀として各地で天才的な用兵を示し、薩摩の西郷吉之助を「あの小童、何と見事な戦ぶりか」と感嘆させ、「小ナポレオン」の異名をとるに至りました。箱館五稜郭攻略でも大いに活躍、またこの時、顕義が注目した徳山藩(長州の支藩)の半隊長が若き日の児玉源太郎でした。

維新後は兵部大輔の大村益次郎によって兵部大丞に任じられ、大村が凶刃に倒れると、顕義は兵制の責任者となります。明治4年(1871)には陸軍少将となり、岩倉使節団の兵部省理事官として欧米の軍事視察に赴きました。ところが顕義が留守の間に、松下村塾の同門である山県有朋が兵部省改め陸軍省の実権を握ってしまいます。明治6年(1873)に顕義が帰国すると、すでに徴兵令が施行されており、顕義はその延期を求めて山県と対立。両雄並び立たずと見た大久保利通らの判断で、顕義は涙をのんで軍事を山県に譲り、自らは司法に転じました。しかし佐賀の乱や西南戦争が起きると、用兵の才を買われて司令官として出陣、西南戦争では熊本城への連絡を成功させ、戦いの帰趨を決します。 

司法大臣に就任し、日本法律学校、国学院の設立に尽力

明治11年(1878)、陸軍中将、司法大輔に任ぜられ、明治14年(1881)には内務卿を兼ね、翌年、国典を研究するための皇典講究所を設立しました。 明治18年(1885)には第一次伊藤博文内閣の司法大臣に就任。続く黒田清隆内閣でも留任し、法典整備を進めます。明治22年(1889)には皇典講究所所長に就任し、教育機関として日本法律学校を創立(日本大学の前身)。翌年には講究所内に国文・国史・国法を研究する教育機関・国学院を設置しました(国学院大学の前身)。顕義はその後も司法大臣を歴任します。

明治25年(1892)、枢密顧問官に就任。同年11月、文久3年の但馬生野の変で自刃した再従兄の河上弥一の最期の地に建立された碑に参拝し、生野銀山を視察中に倒れ、そのまま他界しました。享年49。

顕義はある宴会で、政府の施策をあげつらう若い官僚に対し、「戦もせずに成り上がった輩が、きいた口を叩くな」と烈火の如く怒ったという記録があります。師・松陰の志と、大村の合理主義を胸に、功名を求めず新国家建設に尽くした顕義。村塾同門の山県有朋や伊藤博文には常につきまとった世の批判が、顕義に対しては一切無かったといわれます。

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