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徳川家康は大坂の陣で討ち死にしていた!?~堺・南宗寺にある墓の謎

2018年02月23日 公開
2022年12月07日 更新

楠戸義昭(歴史作家)

徳川家康
 

本物の家康は、すでに死んでいた!?

謎といえる家康の墓が、大阪府堺市の南宗寺にある。

家康は元和2年(1616)4月17日に75歳で駿府城で死んだが、実はこの時に死んだのは影武者で、本物の家康はその11カ月前の大坂夏の陣で、すでに死んでいたというのである。

にわかには信じがたいことである。豊臣家は滅びても、秀吉・秀頼を慕う上方の人々の願望が伝説をつくり、本物の墓までつくらせてしまったということであろうか。

家康といえば、夏の陣で真田幸村に攻め込まれ、一時は死を覚悟したことは有名である。大坂方の敗北が決定的になった慶長20年(1615)5月7日正午すぎ、茶臼山にあった幸村は、ただ家康の首のみを狙う乾坤一擲の勝負に出た。家康は平野から住吉街道の北を通過して、越前兵の後方へと陣を押し出してきていた。

銃撃戦の中、幸村は前面の敵である越前兵を切り裂くように突き崩して、徳川旗本隊が守る家康の本陣に斬り込んだ。「薩藩旧記雑録」には、幸村は家康の御陣に3度攻めかかり、御陣衆を追い散らし討ち取った。御陣衆のなかには3里も逃げた者もいたと記す。

そして、家康本陣の槍奉行だった大久保彦左衛門忠教が、「三河物語」に家康本陣の無様さを記している。「厭離穢土 欣求浄土」の宝幢の旗が崩れ、しかも後方に退く家康が、旗奉行を見失ったとある。旗本は逃げて、家康は小栗正忠という者と、たった2人で一時取り残され、死を覚悟した。だが幸村は家康を狙い3度攻めかかったが、前日からの戦いで疲労が激しく、ついに幸村の槍は家康に届かず、家康は命拾いをしたのだ。

しかし伝承では家康はこの戦いで死に、南宗寺に密かに葬られたという。その墓は現に存在しているのである。

大正11年(1922)に刊行された「大阪府全志」巻之5で、南宗寺の寺歴が語られる。その中で、「本堂と庫裡の間に東照宮の廟あり。その傍らにあるは照堂にして、すなわち開山堂なり。堂の床下に無銘の塔あり。安国院無銘塔という。これなん疑問の塔なり。

寺の旧記によれば、元和元年大坂の役に徳川家康は摂津・河内両国の境なる平野に陣せしが、敵雷火を放ちてこれを襲う。いわゆる平野の焼打ちこれなり。家康僅かに免れて葬輿に乗じ、遁れて和泉の半田寺山に至る。たまたま後藤又兵衛基次の紀州より帰り来たれるに会す。基次これを認め怪みてその輿を刺す。彦左衛門驚きてその槍を斫(はつ)る。基次顧みずして去る。而してこれがために家康は戧(そう)を負いて終に起たず。 侍臣密かに遺骸を携えて当寺に来り、第二世本光禅師に請いてこれを照堂の下に斂(おさ)む。時に元和元(慶長20)年四月二十七日なり。戦役平定の後これを駿州久能山に改葬す」と述べている。

死亡日時が、夏の陣の前月で、家康はまだ京都二条城にいる時だが、日時は単なる間違いとみるのだ。

そして不思議にもこれに符合する遺物が、日光東照宮に保存されている。家康が夏の陣に用いた網代駕篭である。木枠に三つ葉葵紋をあしらった豪華な駕篭だが、屋根に槍が貫通した跡が、きれいに残っている。家康を突き刺してできた槍穴跡なのだろうか。大きな謎をはらむ。

また、南宗寺には家康の死に関する、別の言い伝えもある。

「大阪府全志」また「大阪府史蹟名勝天然記念物」第5冊(昭和6年刊)によれば、家康が死んだのは、幸村の猛攻をしのいだ後、大坂城に大挙して攻めかかり、いっきに城を陥落させた際のことだというのだ。

その最中、家康は城兵の乱射する弾丸にあたり、この傷がもとで死んだ。そこで堺の商人・海部屋ら7人の糸割符商(生糸輸入商)に密旨が下り、南宗寺住職に命じて、秘密裏に遺骸を同寺に葬り、その上に紫雲石を安置した。事実は隠され、ただこの石を神のごとく崇めた。

やがて7人は幕府に願い出て、その紫雲石を日光廟に奉納することを許された。7人はこれを護衛して日光に赴いたが、実は家康の遺骸の改葬が目的だった。この秘密の功労によって、7人は交代で毎年正月、日光に詣でるが、徳川三家三卿の他は許されない、内殿での参拝が特に許された。

このように両著は記す。さらに家康の影武者説が小説などで語られる中で、小笠原秀政が家康の身代わりになって生きたという話もよく言われる。

秀政は信濃松本藩主で、家康の長子・信康の娘を妻にしていた。夏の陣には息子の忠脩・忠真とともに参戦し、5月7日、家康を襲う幸村と激闘を繰り返し、首級47を挙げたが、忠脩は討ち死にし、秀政自身も瀕死の重傷を負って戦場を脱したものの、夕方に死んだのである。まさに家康を必死に守っての死だった。

この事実を捻じ曲げて異聞が生まれた。この時、死んだのは家康であって、秀政は無傷で、これ以降、家康の影武者をつとめたというのだ。しかし当時、秀政は47歳だった。74歳と老いて、しかも腹が出て甲冑を着用できなかった家康の影武者は到底無理といえた。家康の孫娘を妻にし、さらに夏の陣の武功によって、子孫は改易の危機をたびたび救われた。そんな事実から秀政の影武者説が生まれたのだと思われる。

このように、家康が夏の陣で死んだという異聞は多い。そして南宗寺の墓が本墓とみなされる最大の根拠として、元和9年(1623)7月10日に秀忠が参拝し、その直後に将軍職を譲り、さらに新将軍になったばかりの家光が、就任1カ月もしない8月18日に、南宗寺に詣でたことを挙げる。

しかも堺奉行は就任すると、まず拝廟のために南宗寺を訪れ、代々この寺を保護し続けてきたからである。

家康の墓は葵紋の瓦を乗せた塀を背景に建つ。「東照宮 徳川家康墓」と刻まれる墓は、昭和42年(1967)に水戸徳川家の家老を先祖に持つ三木啓次郎氏が、パナソニック創業者の松下幸之助氏らの援助を受けて建立したものである。

ここに昔から東照宮があったが、昭和20年(1945)7月の堺大空襲で、開山堂、本堂などとともに焼失した。そして開山堂下にあった、家康の墓とされる卵塔墓は石造だったために被害を免れて現存し、新旧2つの家康の墓が境内にあるのだ。
 

※本記事は、楠戸義昭著『戦国武将「お墓」でわかる意外な真実』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。

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