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平家滅亡!壇ノ浦の合戦~波の下にも都のさぶらふぞ

2018年03月24日 公開
2022年06月02日 更新

3月24日 This Day in History

「安徳天皇御入水之処」の石碑
「安徳天皇御入水之処」の石碑
 

【今日は何の日】 寿永4年3月24日、壇ノ浦の合戦で平家が滅亡

寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の合戦で平家が滅亡しました。源平合戦最後の大戦さです。

この戦いで際立つのは、平清盛の四男・権中納言知盛でしょう。開戦劈頭、知盛は船の屋形に立って、平家の将兵に呼びかけます。

「今日が最後の戦さだ。少しも退くな。いかに名将勇士でも、運が尽きれば滅びる。しかし名こそ惜しけれ。東国の者どもに弱気を見せるな。いつのために命を惜しむのか。今こそが命を賭けるべき時ぞ」

卯の刻(午前6時)、戦端が開かれます。『平家物語』では源氏の船3000余艘、平家1000余艘とありますが、実際は双方その半分以下といわれます。緒戦は平家が優勢でした。逆潮もあって源氏は満珠、干珠島まで後退します。しかしそこで源義経が奇策に出ました。敵船を操る水夫目がけて矢を射かけさせたのです。当時の戦闘では、ルール違反というべきものでした。

形勢は逆転し、午後3時には潮流も源氏有利となり、平家方には裏切りも出て、ついに敗北は免れないものとなります。知盛は安徳天皇の御座船に小舟を漕ぎ寄せると、「かくなる事態となりました。見苦しき物はみな海にお捨て遊ばされますように」といい、大長刀を振り回して獅子奮迅の働きを続ける味方の平教経には、「もう罪をつくりなさるな。大した敵でもないではありませぬか」と声をかけたといいます。

波の下にも都のさぶらふぞ……

そして、二位局(時子)や建礼門院が安徳天皇とともに入水し、逡巡する宗盛や清宗も海に落ちたのを見届けると、「見るべきものは見つ。今は何をか期すべし」と言い残し、海中深く沈むように鎧二領を身につけて、入水しました。平家一門の栄枯盛衰を象徴するような最期です。
 

宗盛父子、時忠、建礼門院……生き残った平家の公達

平家の公達が皆、鎧をまとい、時に碇を背負って海の藻屑と消える中で、捕らわれて生き残った者たちもいました。まずは平家方の総大将であった平宗盛とその子、清宗です。

『源平盛衰記』は宗盛父子について、「親子は海にも入らず、自害もせず、船中をあちこち走り回ったので、源氏の侍どもも呆れて、二人を海に突き落としてしまった。すると大臣親子は水練の達人であったらしく、立ち泳ぎしていた」という内容を記しています。結局、宗盛親子は引き揚げられて、捕虜となりました。壇ノ浦合戦で生け捕りされた者は、男38人、女43人と『平家物語』は記します。

やがて親子は源義経に連れられて都に戻り、さらに義経は二人を連れて鎌倉に向かいました。宗盛はしきりに命乞いし、義経は助命に努めましょうと応えています。しかし、源頼朝の裁定は厳しいものでした。5月23日、近江国篠原の宿まで戻ったところで、親子は引き離され、最期の時を迎えます。

息子と離された宗盛は、「息子はどこにいますか。たとえ首を刎ねられても骸は息子とともにと思っていますのに、生きながら別れるとはあまりに淋しい」と泣いて訴えました。 そして首を刎ねられる瞬間、宗盛は「右衛門佐もすでに斬られたのか…」とつぶやき、直後に首を落とされます。父子の体が一つ穴に埋められたのは、源氏方のせめてもの慈悲でした。

時子(二位尼)の弟・平時忠も捕らえられました。時忠は義経の宿所近くに収容されていましたが、息子の時実と相談し、娘を義経の妻として差し出します。義経は美しい娘に心を奪われますが、これが後に頼朝の不興を買いました。やがて時忠は命を助けられ、能登に配流されることになります。能登には海運による交易を手広く行なっていた時国家がありますが、実はその時国家の祖こそ、配流された平時忠であるという伝承が残ります。それが事実であれば、時忠はしたたかに能登で生きていたということになるでしょうか。

そして、安徳天皇の母親・建礼門院徳子。彼女も入水する覚悟がなく、見苦しくも生き残ったといわれますが、実際は二位尼から託されていたことがありました。敗北が決定的になった時、二位尼は建礼門院にこう言い含めます。

「今度の戦に男が生き延びることは万が一にもありませぬ。しかし、昔から女は殺さぬ習いです。あなたはどんなことがあっても生き残り、帝の菩提を弔い、私たちの後世を祈ってください」

つまり建礼門院は平家一門の霊を弔い、また平家一族の物語を後世に語り継いでいく大任を委ねられており、たやすく死ぬことは許されていなかったのです。

建礼門院はしばらく吉田に仮住まいした後、5月1日に長楽寺の印誓上人の手で落飾。大原寂光院で数人の女房たちとともに、ひっそりと平家一門の菩提を弔う日々を送ることになります。

翌文治2年(1186)4月、建礼門院のもとを一人の貴人が訪れます。後白河法皇でした。世にいう「大原御幸」です。 建礼門院は都落ち以来、自分が見聞し体験してきたことをありのままに語り、法皇は「そなたは目前に六道を見たのであろう」と涙したといいます。

戦場で死ぬのも修羅の道であれば、敗者として生き残るのもまた修羅の道かもしれません。どちらを選ぶかは(否応なく選ばされることもありますが)本人の意志ですが、そこで負わされる重みは、どちらも変わりはないのかもしれないと感じます。

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