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鈴木貫太郎~終戦を託された宰相の逸話・名言

2018年04月17日 公開
2022年07月27日 更新

4月17日 This Day in History

鈴木貫太郎
 

今日は何の日 昭和23年4月17日
終戦時の宰相・鈴木貫太郎が没

昭和23年(1948)4月17日、鈴木貫太郎が没しました。太平洋戦争終結時の首相として知られます。今回はいくつかのエピソードを紹介しましょう。

慶応3年(1867)に関宿藩士の子に生まれた貫太郎は海軍軍人の道を歩みました。日露戦争では駆逐隊司令を務め、敵艦に極力接近して魚雷を放つ猛訓練を行なったことから「鬼貫」の異名をとり、日本海海戦では敵戦艦への雷撃に成功する大殊勲を挙げています。

その後、海軍中将になった貫太郎は大正7年(1918)にアメリカを訪問。当時、第一次大戦が終わって、太平洋の島々に日本が影響力を持ったことから、日米間の緊張が高まりかけていました。サンフランシスコ市長に招かれた歓迎会で、貫太郎は次のようなスピーチをしています。

「日本人ほど平和を愛する人間は世界にいない。日本は300年間、一兵も動かさず、平和を楽しんでいた。今日の日米関係は険悪で、日米もし戦わばという声も両国から上がっているが、日米は戦ってはいけない」

「もしアメリカが日本を攻めたとしても、日本人は断じて降伏しない。占領するためには6000万人の兵をもって、日本人6000万人と戦わなければならない。アメリカがそれだけかけて日本を占領したとしても、得るのはカリフォルニア一州ぐらいのものだ」

「太平洋はその名のごとく、太平の海でなければならない。この海は神が貿易のために置いたもので、軍隊を運ぶために使うなら、天罰が下るだろう」

スピーチは会場から万雷の拍手を受けました。この日米友好の姿勢が、終戦内閣を彼に託す契機になったともいわれます。

昭和4年(1929)、昭和天皇のたっての希望で、貫太郎は侍従長に就任しました。貫太郎は武人が政治に関わってはならないというポリシーを持っており、5・15事件の時には非常に立腹したといいます。その後、陸軍の安藤輝三という青年将校が訪ねてきた折も、「軍備は国家の防衛のためのもので、みだりに政治に利用してはならない」という話を2時間にわたって聞かせ、安藤は「今日はよい話を聞きました」と言って帰りました。

昭和11年(1936)2月26日、その安藤が率いる青年将校の一隊が邸宅を急襲、貫太郎は瀕死の重傷を負いますが、たか夫人の言葉で安藤は止めを刺さず、一礼して去りました。貫太郎は2・26事件で奇跡的に一命をとりとめます。

昭和20年(1945)、78歳の貫太郎は高齢であることや、武人が政治に関わるべきでないという信条から固辞するものの、昭和天皇の希望もあって総理大臣に就任します。貫太郎は表面上「聖戦完遂」を説きますが、真意は自分の内閣を「終戦内閣」にすることにありました。

この時、幸いであったのは、貫太郎が侍従長時代に侍従武官であった阿南惟幾が陸相であったことです。二人は互いの人柄を認めていました。 阿南も立場上、聖戦完遂を叫ばざるを得ませんが、終戦に導くという点で貫太郎を信頼しており、彼は陸相の常套手段であった、辞表を出して鈴木内閣を倒すことを最後までしませんでした。

さて、貫太郎組閣直後、アメリカのルーズベルト大統領が病没しました。その際、貫太郎が同盟通信の海外向け英語放送を通じて表明した弔意が、アメリカ国民を驚かせます。

「アメリカ側が今日、優勢であることについては、ルーズベルト大統領の指導力が非常に有効であって、それが原因であることを認めなければならない。であるから私は、ルーズベルト大統領の逝去がアメリカ国民にとって、非常なる損失であることがよく理解できる。ここに私の深甚なる弔意をアメリカ国民に表明する次第である」

この貫太郎の弔意に衝撃を受けたのが、当時アメリカに亡命中であったドイツの文豪トーマス・マンでした。実はドイツでもルーズベルト逝去に対して、ヒトラーが声明を出しています。

「ルーズベルトは今次戦争を第二次世界大戦に拡大した扇動者であり、さらに、最大の対立者であるボルシェビキ・ソビエトを強固にした愚かな大統領として、歴史に残る人物であろう」

このあまりにも対照的な弔意に、トーマス・マンはいたたまれず、祖国ドイツへのラジオ放送で語りかけます。

「東洋の国・日本には、今なお騎士道が存在し、人間の品性に対する感覚が存する。今なお死に対する畏敬の念と、偉大なる者に対する畏敬の念が存する。これが日独両国の大きな違いでありましょう」

一方、日本では貫太郎がルーズベルトに弔意を表わしたことに不満を抱いた青年将校たちが、首相官邸に押しかけてきました。2・26の再現になりかねない事態に、正面玄関で、いきり立つ彼らを前にした貫太郎は、おだやかにこう言ったといいます。

「古来、日本精神の一つに、敵を愛すということがある。私もまた、その精神に則ったまでです」

最後の武士というべき貫太郎は、聖断を得てポツダム宣言受諾を決め、終戦へと導きました。8月15日に総辞職し、その日、陸軍大尉らに命を狙われますが、間一髪暗殺を免れます。

やがて枢密院議長を経て、翌年6月、郷里に戻りました。 短い晩年、「われは敗軍の将。郷里で畑を相手に生活しております」と語っています。昭和23年(1948)、貫太郎、没。享年81。

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