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松平春嶽~動乱の時代にあって、名君が貫き通したもの

2018年12月23日 公開
2023年10月04日 更新

童門冬二(作家)

松平春嶽
松平春嶽像(福井市・福井市立郷土歴史博物館前)

ペリー来航をきっかけとして幕末動乱の幕が上がった。「開国か、攘夷か」の争いが倒幕運動へと転じていく中で、「尊王敬幕」の姿勢を貫き、挙国一致による新国家樹立に尽力した松平春嶽。四賢侯の一人として知られる、この越前・福井藩主は歴史に何を刻んだのか。

童門冬二(作家)
昭和2年(1927)、東京生まれ。東京都で政策室長などを歴任した後、作家活動に専念。在職中の経験をもとに、実学と歴史を重ね合わせ、歴史界に新境地を開く。主な著書に『上杉鷹山の経営学』『横井小楠と由利公正の新民富論』『西郷隆盛 人を魅きつける力』などがある。  

 

徳川斉昭と阿部正弘の薫陶を受ける

幕末に「四賢侯」と謳われた大名の一人が、越前・福井藩の松平春嶽です。

彼の特徴として第一に挙げられるのは、激変する局面に臨んでも「尊王敬幕」(天皇を尊び、幕府を敬う)の姿勢を貫き通したことでしょう。

「敬幕」は出自と関係しています。

文政11年(1828)、春嶽は徳川斉匡(なりまさ)の八男として、江戸城内の田安屋敷で生まれました。父の斉匡は、将軍に継嗣がないときに後継を出す御三卿の筆頭・田安家の3代目当主です。

天保9年(1838)、11歳のときに越前松平家の養子となり、元服して慶永を名乗ります(春嶽は隠居後の号です)。「慶」は12代将軍・徳川家慶からもらったもので、春嶽と家慶は従兄弟の間柄でした。

このように徳川将軍家とつながりの深い名門出身だったことが、幕府に対する考え方や姿勢に大きく影響したのはいうまでもありません。

ただし、それが単なる忠誠心やプライドというようなものではなく、田安家出身で寛政の改革を指揮した松平定信を尊敬したことから、春嶽は「改革」を意識していたと思われます。それは、守旧派と一線を画して幕府を改造し、新国家建設を進めようとした原点といえるかもしれません。

では、「尊王」はというと、春嶽が尊敬する人物として挙げている、水戸の徳川斉昭が大きく関わっています。

福井藩主となった春嶽は、天保14年(1843)に江戸の水戸藩邸を訪ね、斉昭に藩主の心得を質問しました。このときに「見どころがある」と感心した斉昭が、春嶽に目をかけるようになったのです。

斉昭やその家臣の藤田東湖などから水戸学の薫陶を受け、学んだ尊王思想は、終生変わることがありませんでした。

春嶽を語る上では「尊王敬幕」に加え、「開国派」という特徴を外すことはできません。

もっとも、ペリー来航時は、水戸の徳川斉昭とともに強硬な攘夷論を唱えました。それが開国派に転じたのは、薩摩の島津斉彬と老中・阿部正弘の影響が大きいのですが、中でも阿部は、春嶽にとって政治家としての「師」だったといってもいいでしょう。

阿部正弘から学んだ最たるものは「雄藩連合」という政権構想です。

ペリーが来航し、武力を前面に出して開国を迫るアメリカへの対応が喫緊の課題となったとき、海に面した領地をもつ大名の連合政権を樹立しようと、阿部は考えました。

候補に挙げられたのは薩摩の島津、宇和島の伊達、土佐の山内、肥前の鍋島、陸奥の伊達、越前の松平などで、越前以外は外様大名ばかりです。

それまで幕府は譜代大名と旗本だけで運営されていたのですが、譜代、外様の区分をなくし、現代風にいえば保革連合政権をつくろうとしたわけです。

残念なことに、「雄藩連合」を実現することなく、阿部正弘は急逝してしまいました。しかし、阿部の死後、この構想を受け継いで尽力したのが春嶽です。

春嶽がブレーンとした横井小楠は、「譜代大名と旗本で構成され、外様大名を入れない幕府は、徳川家の私的政府である。これは国権の私物化であって、日本国民を対象にする政府ではない」といっています。

小楠の解釈を踏まえれば、春嶽は幕府を「私的政府」から「公的政府」につくり替えようとした、ということができるでしょう。

春嶽の立ち位置は福井藩であったけれど、ローカルな立場を越えて「日本国の大名」という視点を持ち、日本国(ナショナル)と国際社会(グローバル)を常に意識しながら、諸問題に対応したと私は捉えています。
 

安政の大獄で失脚するも… 

老中・阿部正弘の死後、幕政の中心となったのは大老の井伊直弼です。次期将軍に一橋慶喜を推す松平春嶽は、紀州の徳川慶福(家茂)を推す井伊と対立します。

そして安政5年(1858)、井伊が勅許を得ずに日米修好通商条約を結んだことへ抗議する際、江戸城に不時登城したことが罪に問われて隠居させられました。安政の大獄です。

その後に将軍の家定が没して、家茂が14代将軍になり、春嶽の政治生命は終わったかに見えましたが、万延元年(1860)、桜田門外の変で井伊が暗殺されると流れが変わります。

文久2年(1862)に春嶽は復権、新設された政事総裁職に任じられて、将軍後見職に就いた一橋慶喜とともに、いわば幕府の「ツートップ」となりました。

以後、挙国一致体制によって難局に対応しようと、力を尽くします。国内を平和裏にまとめる策として推進したのが「公武合体」でしたが、これがうまくいかないとなると、次に「大政奉還」を唱えました。

慶応3年(1867)に徳川慶喜が大政奉還を行ないます。これは坂本龍馬の献策といわれますが、文久3年(1863)の段階で、春嶽は将軍・家茂に政権の返上を説き、その後、慶喜にも勧めているのです。

慶応3年の夏頃から岩倉具視の家に武力倒幕論者が集まり、国内戦争革命派の巣になったのに対して、内戦の回避を目指す大政奉還論者の巣が福井藩邸だったのは、そういう経緯があったからです。

面白いのは、何か問題があると春嶽が引っ張り出されること。それだけ「あの人なら……」と期待されたのでしょう。

また、ピンチヒッターで表舞台に立っては、適時打を打つ名手でもありました。公武合体のために将軍・家茂の上洛を進めたことや、第二次長州征伐に反対したことなどが、例として挙げられます。

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