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李登輝&魏徳聖 KANO精神と八田與一

2015年01月23日 公開

李登輝(元台湾総統)、魏徳聖(映画監督)

『Voice』2015年2月号より》

 

日本人が忘れてしまった日台の歴史、そして絆がいま鮮やかに甦る!

日本統治時代の台湾から甲子園をめさず球児たちの不屈の青春を描いた映画『KANO』が日本で公開される。

この機会に、台湾を代表する映画監督であり、『KANO』の製作総指揮を務めた魏徳聖氏と李登輝元総統の対談が実現。

 


魏徳聖(ウェイ・ダーション/Wei Te-Sheng)

映画監督

1969年、台湾台南市生まれ。2008年に初の監督作『海角七号 君想う、国境の南』を発表。台湾で歴代2位となる興業成績を収め、注目を集める。2011年、『セデック・バレ』を発表。2014年に台湾で公開された『KANO』では製作総指揮を務めた。


李登輝(リー・テンフェ/Lee Teng-hui)

元台湾総統 

1923年、台湾・淡水郡生まれ。台北市長、台湾省政府主席、台湾副総統などを経て、88年、総統に就任。90年の総統選挙、96年の台湾初の総統直接選挙で選出され、総統を12年務める。著書に、『新・台湾の主張』(PHP新書)ほか多数。


 

台湾野球の原点にあるもの

 今回は李登輝元総統(以下、李元総統)と対談する機会をいただき、まことに光栄です。もうすぐ92歳の誕生日を迎えられるとのことで、おめでとうございます。

 ありがとう。私は魏さんが手掛けた『KANO』をみたあと、感動のあまり泣いてしまって、そのことは台湾でもニュースになりました。子供たちと真剣に向き合うことで、弱小だった嘉義農林学校(以下、嘉農)を甲子園の決勝まで導いた近藤兵太郎監督は、真の指導者だと思いました。日本人、本島人(台湾人)、そして原住民からなるチームを一つにまとめ上げた手腕は、じつに優れている。ちなみに嘉農が甲子園の決勝に進んだ1931年、私はまだ9歳の子供でした。ただ、台湾から選抜されたチームが甲子園で強豪を次々と破っている、との報道を聞いて、大人たちに交じって嬉しかった記憶があります。

 当時まだ子供だった李元総統が嘉農の活躍をご記憶とのことで、少々驚いています。当時、台湾人の野球に対する知識は、それほど深いものではありませんでした。嘉農の活躍は、まさに台湾に野球が広がるきっかけとなったんです。

 当時のチームのエース、呉明捷選手は嘉農を卒業後、早稲田大学に進学し、六大学野球で活躍(通算7本の本塁打記録は、1957年に立教大学の長嶋茂雄選手が8本の新記録を出すまで、20年間破られなかった)。大学卒業後も台湾に帰ることなく日本でビジネスを手掛け、日本人女性と結婚し、1983年に病死しました。私は呉明捷選手の息子を探し出しましたが、日本では呉氏がどんな人物だったかを知る人は少なかった。これは意外に思うと同時に、残念に思いました。

 あなたがいいたいことはよくわかります。戦後の日本人は、台湾と日本の歴史について知らない人が多いですから。『KANO』に登場する陳耕元(日本名:上松耕一)選手も実在の人物で、台湾原住民のプユマ族の出身でしたね。93年、作家の司馬遼太郎さんが台湾を訪れた当時、総統だった私の紹介で、司馬さんは陳耕元選手の次男、建年氏に会っています。陳建年氏はのちに私の推薦で、台東の県長(知事)を務めた人物です。司馬さんは建年氏の家族と会食した際、陳耕元選手の夫人で、建年氏の母にあたる蔡昭昭さんから二度も「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか」と問われ、答えに窮してしまった。そんな場面を司馬さんは『街道をゆく 台湾紀行』に書いています。「なぜ日本は台湾を捨てたのか」という問いの意味がわかる日本人が現在、はたして何人いるか。

 

『KANO~1931海の向こうの甲子園~』 (C)果子電影

監督:マー・ジーシアン 製作総指揮:ウェイ・ダーション 出演:永瀬正敏/坂井真紀/ツァオ・ヨウニン/大沢たかお ほか ◆2015年1月24日(土)より、新宿バルト9ほか、全国公開 配給:ショウゲート

 

 私が映画『KANO』の原形となる史実を見つけたのは、じつは『セデック・バレ』(2011年)の脚本を書いているときでした。

 『セデック・バレ』は、いわゆる霧社事件(1930年に起こった台湾原住民による最大規模の抗日事件)のことを描いた映画でしたね。あなたの処女作『海角七号 君想う、国境の南』(2008年)に加え、私はあなたがつくった映画3本を全部みていることになる(笑)。

 ありがとうございます(笑)。私は成長するにつれ、台湾原住民にどう接したらいいのか、悩むようになりました。「原住民のほうも、軽々しく情けをかけられたくないだろう」との思いがあったのです。だからこそ、台湾原住民の知られざる、そして尊重すべき歴史が描けると考え、この史実を映画にしようと決意しました。霧社事件の直接の原因は、日本人巡査が原住民の若者を殴打したことにありました。文化的な行き違い、摩擦。日本人と台湾人という異なるエスニシティ(民族性)の対立です。

 私の父親は一時、巡査を務めていて、霧社事件に動員されそうになったことがあります。事件の背景には、日本人の台湾原住民に対する民族的な優越感があり、それに原住民が反発したことがあるのは間違いない。

 セデック族の300人ほどの男子は、近代兵器で武装された日本軍相手に死を覚悟して徹底抗戦しました。彼らは何のために戦ったのか。自らの誇りを守るためです。降伏を潔しとせず、自決する者もいた。こうした彼らの武勇、誇りの貫き方をみて、われわれの武士道精神と変わらないではないか、と捉えた日本人もいました。

 霧社事件は、嘉農が甲子園で決勝を戦った1年前に起こっています。嘉農の近藤監督は、民族的な差別をしない人でした。それぞれの民族の特長を生かして、甲子園優勝という同じ目標、夢に向かって、チームをまとめ上げた。霧社事件が起こった当時、原住民を管理していた巡査とは対照的な姿勢だったと思います。

 あなたは『海角七号』でも、日本人と台湾人の交流を描きましたね。「日本人であろうが、台湾人であろうが、あるいは原住民であろうが、お互いを想う気持ちに民族など関係ない」「たとえ使う言葉は違っても、またお互いの価値観、習慣は違っても、気持ちを通じ合うことができる」。このようなテーマでつくられた映画だと感じました。

 私が台湾民主化、本土化の過程で打ち出したのが「新しい時代の台湾人」というコンセプトです。外省人(日本敗戦後、中国大陸から渡ってきた住民)と本省人(それまで台湾に住んでいた住民)の対立はもうやめよ。あるいは、エスニック・グループ(民族集団)の違いによる差別をやめよ。この民主台湾に住み、生活を営み、公のために尽くそうとする人は、すべてが等しく台湾人である、という思想です。私は、あなたの映画には、こうした思想がまさに描かれているような気がするんです。それは台湾の古い思想を打ち破り、台湾人の新しい文化を生み出すことにとても寄与していると評価しています。

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