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山本覚馬・動乱の渦中で常に日本を見据え、戦い続けた不屈の会津藩士



2013年03月12日 公開

中村彰彦(作家)

『歴史街道』2013年4月号より

山本角間の墓
山本覚馬の墓(京都市)
 

「今、日本にとって急務なのは、内戦ではない」。
戊辰戦争の最中、薩摩藩に幽閉されながらも、日本の近代化を進めるための方策を、新政府に建白した男がいた。会津藩士・山本覚馬である。
『管見』と題する、23項目にわたる詳細かつ具体的な内容はあの坂本龍馬の「船中八策」を遥かに凌ぐと評価される。
教育と物づくりを軸に、新時代の日本像を描く覚馬が、目指していたものは何であったか。

 

西郷らを瞠目させた意見書『管見』

現在、大河ドラマの放送もあり、新島八重(山本八重)が注目を集めています。幕末の戊辰戦争では、当時最新鋭のスペンサー銃を手に鶴ケ城龍城戦を戦い抜き、維新後には京都で同志社大学の設立者であるキリスト者・新島襄と結ばれて、ともに理想の教育の実現に邁進した、まさに「女傑」です。

そんな八重を語る上で避けて通れないのが、実兄の会津藩士・山本覚馬でしょう。八重が女性でありながら最新の洋式銃を自在に操り、しかも実戦で活躍できたのは、先見性に富んだ17歳上の兄、覚馬の薫陶を受けていたからなのです。

私は、土佐の坂本龍馬がドラマや小説で取り上げられるたびに、「遥かに格上の男が会津にいたのに」と、常々感じていました。

龍馬といえば慶応3年(1867)6月、議会政治の導入など新国家の骨組みを8項目で示した、「船中八策」が有名です。一方の覚馬は慶応4年(1868)6月、幽閉されていた薩摩藩邸で、『管見』と題する意見書をまとめています。その内容は三権分立や二院制をはじめ、商工業振興や税制改革、能力主義の人材登用など、日本の近代化を進めるにあたっての具体案を、23にわたる項目で論じたものでした。

『管見』で感心させられるのは、「教育」と「物づくり」を重視している点です。覚馬は「欧米列強に対抗するには、先ず人材の育成が急務」と、学校建設の意義や女性教育の必要性を訴えました。また一方で、これからは農業ではなく商工業で国を富ませるべきとし、殖産興業に力を入れることを主張します。

「教育」と「物づくり」を核にした国づくりという構想が、いかに的を射たものであったかは、その後の日本の発展が証明しているでしょう。

龍馬の「船中八策」が「どんな体制の国をつくるか」という理念を述べた、いわば「総論」に留まっていたのに対し、覚馬の『管見』は大きなビジョンを掲げた上で、各分野で何をすべきか、具体的な方策を説く「各論」までを打ち出していたのです。その内容の充実ぶりに仰天したのが、新政府の西郷隆盛や岩倉具視らでした。彼らが瞳目したのも無理はありません。「討幕」にのみ心を奪われ、新国家の形も未だ手探りであった西郷たちにすれば、敵方の会津藩士が、目指すべき「近代日本のあり方」を明示したことに、ただ驚くしかなかったのです。

 

覚馬を培った会津の気風と象山

それにしても、覚馬はなぜこれほど先見性に富んだ意見書を記すことができたのでしょうか。その背景には、故郷・会津の伝統と、江戸で出会った1人の男の存在があります。

先ほど、『管見』は「教育」を軸の1つに据えていると述べました。私には、これは非常に腑に落ちるものです。というのも、覚馬が育った会津藩は、諸藩に先駆けて「教育立国」を実現した藩であったからです。

始まりは、藩祖・保科正之の時代に遡ります。当時、無為庵如黙という僧侶が、会津城下に稽古堂という学問所を開きました。そこでは家老から一般の町民まで、身分に関係なく誰もが儒学を学んだといいます。この気風を昇華させたのが、5代藩主・松平容頌の時代に藩政改革を実行した名家老・田中玄宰でした。彼は享和3年(1803)、新たに藩校・日新館を設立。藩士は10歳から藩校に通い、充実した教育を受けることになるのです。

また、藩士の子供は日新館に入る前から「什の掟」に親しみます。「ならぬことはならぬ」で知られるこの教えにより、誰もが幼い頃から「会津武士のあり方」を身につけました。こうした会津藩独特の雰囲気の中で成長した覚馬が、「教育は近代化の軸である」と考えるのは、ある意味で必然だったでしょう。

また、覚馬が23歳の江戸遊学の折に出会った佐久間象山の影響は、極めて大きなものでした。後年、覚馬は尊敬する人物に「佐久間象山、勝海舟、横井小楠」の3人を挙げていますが、日本全体を俯瞰する眼と先見力は、象山に鍛えられています。

当代随一の蘭学者であった象山は、日本を取り巻く世界情勢にも通じており、阿片戦争に敗れ、列強に蹂躙された清国の惨状も知っていました。そして日本がその二の舞にならぬよう、開国して西洋文明を取り入れ、列強に対抗できる国力をつけるべきと唱えたのです。「異国の侵略を防ぐ」点で、象山の狙いは積極的な攘夷です。そしてそれは、外国の圧力に屈しただけの開国論や、相手の実力も知らずに「夷狄など皆追い払ってしまえ」と説く夜郎自大の攘夷論とは一線を画すものでした。

そんな象山が重視したのが、工業力です。当時の日本は新式の武器など最先端の工業製品を輸入に頼っていました。これでは列強から侮られ、攘夷は果たせない――象山はそう考え、最新の科学に基づいた工業力の強化を主張したのです。実際、象山は自ら電信機などを製作し、今も長野県松代の象山記念館には、彼が手がけた多くの機器が残っています。

こうした象山の議論は、覚馬にはストンと胸に落ちたはずです。実は会津藩では、先述の田中玄宰が手がけた改革により、各地から進んだ技術を導入することで、漆や酒造業などが発展し、藩政の建て直しが実現していました。つまり、「自国の物づくり」の振興から富国強兵を実現することは、会津藩がすでに経験してきたことでもあったのです。

覚馬が『管見』で「物づくり」を標榜したのは、このような背景があってのことでした。日本を守るために何をすべきか。象山の思想は、会津藩が経験した「人づくり」「物づくり」を肌で知る覚馬に受け継がれ、具体化されたのです。

 

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