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江戸を大都市にした天海は、何を仕掛けたのか

2013年03月28日 公開

宮元健次(作家・建築家)

平安京に倣った「鬼門封じ」

 江戸の根幹部分が定まった後、天海はさらに周辺の要所に発展の礎を築いていきます。その要所とは、江戸城の北東と南西でした。

 陰陽道では、北東は「鬼門」といって邪気が入ってくる、忌まわしき方角にあたります。そしてその正反対にあたる南西は邪気の通り道の「裏鬼門」として要所とみなされました。

 そのため、平安京では北東にある比叡山に「鬼門封じ」として延暦寺を建て、王城鎮護を委ねたのです。またその北東のライン上には延暦寺の塔頭の赤山禅院、狸谷山不動院、下鴨神社、幸神社(こうがみやしろ)などの寺社が王城の護りを担っています。現在の御所の塀を見ても、北東隅だけは「猿が辻」という鬼門封じが設けられ、木像の猿の護り神が鎮座しています。この猿は、延暦寺の鎮守社である日吉大社の使いで、赤山禅院の屋根の上や幸神社の社殿にも見られます。一方、南西の裏鬼門には大原野神社や壬生寺があって、こちらも平安京の護りとなっているのです。

 比叡山で天台密教を極めた天海は、こうした鬼門に対しての考え方を、江戸にも持ち込みました。よく知られているのは、天海が住職を務めた上野の寛永寺です。寛永寺は寺号を「東叡山」といいますが、これは東の比叡山の意味で、平安京に倣って江戸の鬼門鎮護を担いました。堂塔伽藍も延暦寺に倣い、近江の琵琶湖に見立てて不忍池が設けられ、琵琶湖の竹生島と同じく中之島に弁財天を祀るというように延暦寺に模したつくりになっています。さらに寛永4年(1627)には寛永寺の隣に家康を祀った上野東照宮を建立し、江戸の護りとしました。

 他にも、天海が行なった鬼門封じはいくつもあります。豊島郡芝崎村(現在の千代田区大手町付近)にあった神田神社(神田明神)を、現在の湯島の地に移しました。また、浅草寺を幕府の祈願所とし、ここにも家康を東照大権現として祀りました(ただし、東照社は覚永19年<1642>に焼失)。

 天海はまた、裏鬼門も寺社によって護り固めました。2代将軍秀忠を増上寺に葬って徳川家の菩提寺とし、さらに、日吉大社から分祀して日枝神社を移しています。

 江戸の三大祭といえば、神田神社の神田祭と浅草寺の三社祭と日枝神社の山王祭ですが、実はこれらの祭は江戸城の鬼門と裏鬼門を祀り浄める意味合いが秘められていたのです。そして興味深いことに、徳川家の菩提寺となった寛永寺と増上寺、それに神田神社を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線が交わる点には、江戸城が位置していることがわかります。天海はこれほどまでに、徹底して鬼門・裏鬼門封じを仕組んでいたのです。

   

要所に封じた地鎮信仰

 さらに天海は、陰陽道の力のみならず、実はもう1つ、大きな力を用いました。それは、遥か昔の平安時代に関東一円を席巻し、「新皇」と称した平将門公の力でした。

 将門公は桓武天皇の子孫の血筋でありながら、天慶3年(940)に叛乱者として討ち取られ、京都の七条河原で晒し首となりました。その首は関東にいた愛人を慕って飛び去り、今の東京都千代田区大手町一丁目にある首塚の場所に落ちた後、津波や洪水などの災いをもたらすという伝説を生んで人々から恐れられました。天海は江戸の町づくりを進めるにあたって、この将門公の力を借ります。

 首塚の地の近隣には神田神社があり、将門公の胴体を祀っていましたが(一説では、神田とは「からだ」に由来するとも言われています)、天海は首塚はそのまま残して、先ほど述べた通り神田神社を湯島の地に移しました。実はここに、江戸の町を守護する仕組みが隠されているのです。

 というのも、将門公の身体の一部や身につけていたものを祀った神社や塚は他にも江戸の各所に存在するのですが、それらは全て主要街道と「の」の字型の堀の交点に鎮座しているのです。首塚は奥州道へと繋がる大手門、胴を祀る神田神社は上州道の神田橋門、手を祀る鳥越神社は奥州道の浅草橋門、足を祀る津久土八幡神社は中山道の牛込門、鎧を祀る鐙神社は甲州道の四谷門、兜を祀る兜神社は東海道の虎ノ門に置かれました。これら主要街道と堀の交点には橋が架けられ、城門と見張所が設置されて「見附」という要所になりましたが、天海はその出入口に将門公の地霊を祀ることによって、江戸の町に街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったのです。民衆が奉じる地鎮の信仰と機能的な町づくりを上手く融合させた、まさに設計の妙手と言えるでしょう。

 このように、江戸の町は街道や掘割といった機能面での仕組みに加え、天海の真骨頂である陰陽道の地相と鬼門封じ、そしてさらに地鎮信仰まで用いてデザインされました。これらソフトとハードの両面での発展の仕組みがあったからこそ、江戸は世界で有数の百万人都市となりえたのではないでしょうか。

 現在の東京の発展もその延長上にあることを考えると、天海のお陰と言えるのかもしれません。東京の街は日々様変わりしていますが、天海が仕掛けた発展の跡を辿って訪ね歩いてみれば、また一味違った東京の姿が見えてくるのではないでしょうか。

 

宮元健次(作家・建築家)

昭和37年(1962)生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科修了。龍谷大学助教授、大同工業大学教授を歴任。
『江戸の陰陽師』『江戸の都市計画』など著書多数。

 

『歴史街道』2013年4月号

<読みどころ>

「理不尽な敵に、会津とお城を好きにはさせぬ」。
慶応4年(1868)、妹の八重が銃を手に鶴ケ城で籠城戦を挑んでいた頃、兄の会津藩士・山本覚馬は京都の薩摩藩邸に幽閉されながらも、戦い続けていました。洋式砲術家の覚馬は失明し、その腕を発揮できなくなっていましたが、彼は弾丸の代わりに、「建白書」を武器とします。それは新たな日本が目指すべき国家像を示し、無益な戦いを続ける新政府軍を一喝するものでした。「今、日本が急ぐべきは、列強に伍する国力をつけることだ。 志半ばで斃れた人々に代わり、俺がやらねばならぬ」。維新後も八重を導きながら戦い続けた、山本覚馬の先見力と不屈の会津魂を描きます。



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