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織田信長は、なぜ石山本願寺を攻め続けたのか?

2014年02月17日 公開

竹村公太郎(リバーフロント研究所研究参与)

世界海戦史上初の戦術

 石山戦争勃発から6年目の1576年、浅井、朝倉、武田氏を破った余勢で信長は毛利水軍に戦いを挑んだ。信長水軍は長篠の戦いで大成功した鉄砲三段撃ちで臨んだ。しかし、長篠の戦いで通用した鉄砲三段撃ちは毛利水軍には通じなかった。毛利水軍の戦艦はひるまず織田水軍に接近し、焙烙(ほうろく)と呼ばれる火薬を詰めた焼夷弾や火矢で信長水軍を次々と焼き払った。

 信長は生涯何回も戦いで負けている。しかし、これほど完膚無きまで負けた戦いはなかった。「信長敗れる」の報は、いったん治まりかけた戦国の世を再び動揺させた。

 信長は身をもって毛利水軍・村上水軍の強さと恐ろしさを知った。

 信長の強さ、天才性はここから始まる。信長は自分の弱さを知ると変身していく。

 無敵艦隊の毛利水軍を破るにはどうするか、信長は考え抜く。そして、誰も考えたことのない戦術を編み出していった。それは鉄製巨艦の製造であった。長さ12間(約22m)幅7間(約13m)の巨船を鉄板で覆ってしまったのだ。

 前の敗戦から2年後の1578年、鉄で囲まれた艦隊7隻が伊勢を出港した。信長水軍は再び大坂湾で毛利水軍と激突した。この鉄製艦隊は焙烙、火矢攻撃にビクともせず毛利水軍を圧倒し、毛利水軍はちりぢりに瀬戸内海へ逃げ去った。海上からの補給路を断たれた石山本願寺は、朝廷による和解斡旋を受け入れざるを得なかった。信長の和解条件は「石山をよこせ」であり、本願寺はこの条件を受けいれこの地を信長へ明け渡した。

 大坂、上町台地は信長のものとなり、いよいよ天下布武が目前に迫った4年後、信長は戦国の舞台から去ってしまった。

 上町台地の後日談は語るまでもない。豊臣秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破り、翌年に柴田勝家を負かすと、直ちにこの地に大坂城を築造した。信長執念の石山の地は秀吉が引き継いでいった。信長の傍らで仕えていた秀吉は、信長がこだわった上町台地の地形の重要性を知り尽くしていたのだ。そして今度は上町台地に建った大坂城は、大坂の陣で落城するまでの約30年間、徳川家康を苦しめていくことになった。

 

<著者紹介>

竹村公太郎(たけむら・こうたろう)

1945年生まれ。横浜市出身。1970年、東北大学工学部土木工学科修士課程修了。同年、建設省入省。以来、主にダム・河川事業を担当し、近畿地方建設局長、河川局長などを歴任。2002年、国土交通省退官。現在、リバーフロント研究所研究参与及び日本水フォーラム代表理事。社会資本整備の論客として活躍する一方、地形・気象・下部構造(インフラ)の視点から日本と世界の文明を論じ、注目を集める。
著書に、『日本文明の謎を解く』(清流出版)、『土地の文明』『幸運な文明』(以上、PHP研究所)、『本質を見抜くカ――環境・食料・エネルギー』(養老孟司氏との共著/PHP新書)などがある。

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