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「黒田八虎」とは――黒田官兵衛を支えた家臣



2014年03月07日 公開

本山一城(歴史研究家、漫画家)

『歴史街道』2014年2月号[総力特集]黒田官兵衛より

 黒田家には譜代の臣は存在しない。官兵衛の父職隆の代に姫路城主となり、家臣団が形成された。初代家老を曾我大隅守という。官兵衛が家督を継いで、二代目家老になったのが吉田喜三右衛門。三代目家老は久野四兵衛。黒田家が播磨国から豊前国中津へ国替えして栗山善助・母里太兵衛・井上九郎右衛門の三老体制となった。

 その家臣団の中で、官兵衛が集め育てた精鋭部隊の侍大将たちを「黒田二十四騎」と呼ぶ。官兵衛の弟をはじめ、いずれも股肱の臣たちばかりだが、とりわけ「黒田八虎」と呼び習わされるようになった8人は、その中心的な存在といえよう。

 

黒田八虎

黒田兵庫助利高(くろだひょうごのすけとしたか)

1554~1596

 黒田職隆の次男で、官兵衛の8歳下の同母弟。実直な性格で、官兵衛に従って播磨各地で戦功をあげ、秀吉の馬廻りとなった。天正八年(1580)、英賀城幕下の町ノ坪弾五郎重種を倒し、町ノ坪城主となる。四国攻め後に黒田家に戻り、中津城主となった長政の後見役を務めた。道で駕籠に乗った長政に出会えば、家臣たちに手本を見せるべく馬から飛び降りて頭を地に付けて平伏したという逸話があり、家中から慕われたという。朝鮮出兵で病み、帰国後に没した。キリシタンであったというが、洗礼名は伝わっていない。

 

黒田修理亮利則(くろだしゅりのすけとしのり)

1561~1612

 黒田職隆の三男。母は神吉城主の未亡人で、官兵衛の15歳下の異母弟。秀吉の馬廻りとして賤ケ岳の戦いで活躍し、その後、羽柴秀長に仕えたが、官兵衛の豊前入国に伴って黒田家に戻った。朝鮮出兵や関ケ原合戦で活躍している。

 

黒田惣右衛門直之(くろだそうえもんなおゆき)

1564~1609

 黒田職隆の四男。母は家臣である母里小兵衛の未亡人で、官兵衛の18歳下の異母弟。秀吉の馬廻りを務めた後、秀長に仕えた。豊前入国で黒田家に呼び戻され、中津城下の教会で洗礼を受けた(洗礼名はミゲル)。朝鮮出兵や関ケ原合戦で活躍した。筑前入国後は秋月の地に一万二千石を拝領し、2千人のキリスト教信者を保護した。晩年は図書助と称している。

 

栗山善助利安(くりやまぜんすけとしやす)

1551~1631

 四郎右衛門とも名乗る。官兵衛に仕えた一番の家臣。栗山家はもと姫路城近辺の土豪だったが、東播磨に移って別所氏の勢力下にいた。ところが、善助は単身で官兵衛を慕って出仕し、薫陶を受けた。永禄十二年(1569)、西播磨に威を振るう龍野赤松氏との青山合戦で、若かりし善助は敵2人を討ち取っている。以来、数々の武功を重ねているが、摂津国有岡城に捕らえられた官兵衛を救い出したことでも有名。文武両道に優れ、豊前中津時代には三家老の筆頭となった。朝鮮出兵では官兵衛の教えを守り、慈愛をもって朝鮮人を手懐けるなど、軍功以外でも貢献している。関ケ原の際には、母里太兵衛と共に官兵衛・長政夫人を大坂城から脱出させている。官兵衛には欠かせない存在だった。

 

井上九郎右衛門之房(いのうえくろうえもんゆきふさ)

1554~1634

 職隆に小姓として仕えたが、職隆は遺言で、「役に立つ者であるから重臣として扱うように」と命じたため、中津で三老の1人として遇されている。官兵衛を有岡城から救出する際には栗山善助・母里太兵衛らと粉骨砕身している。晩年の石垣原合戦において、敵将吉弘嘉兵衛と一騎打ちをして倒し、面目躍如の働きをした。母里太兵衛とは不仲であったが、この時ばかりは母里が絶賛したと伝えられている。

 

母里太兵衛友信(もり<ぼり>たへえとものぶ)

1556~1615

 尼子氏末裔の母里家に黒田職隆は従兄弟の小兵衛を養子として送り込んだが、合戦で討死したため、家老・曾我大隅守の次男である太兵衛にその名跡を継がせた。官兵衛とは又従兄弟に当たる。生涯において首76を取ったといわれ、藩内1位の記録であった。猪武者であったため、官兵衛は栗山善助と母里太兵衛に義兄弟の誓約をさせ、戒めさせた。勇猛ぶりを見込んで秀吉が直参に望んだが官兵衛は断ったという。頑固な性格で、富士山より自分の領地の山の方が高いと生涯言い張っていたほどだった。また、福島正則から天下無双の「日本号の槍」を呑み取ったことで知られている。腹違いの弟の野村太郎兵衛も負けず劣らず勇猛であった。

 

後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)

1560~1615

 後藤氏は春日山城(兵庫県福崎町)に栄えた豪族だったが、別所氏に滅ぼされた。末孫に当たる又兵衛は、官兵衛に預けられ、小姓として仕えた。官兵衛が有岡城に捕らわれた時に、一緒に仕えていた母方の伯父が離反したため、一時追放されるが、後に官兵衛の息子の長政によって呼び返され、右腕として数々の戦いに奮戦した。勇猛果敢で知られ、「槍の又兵衛」と称されるほどの名手だった。家老並みの扱いを受けたが、晩年は長政との仲がこじれて脱藩している。黒田家からの出奔後は豊臣家を頼り、大坂夏の陣で奮戦するが壮絶な最期を遂げた。

 

黒田三左衛門一成(くろださんざえもんかずしげ)

1571~1656

 有岡城入牢中、官兵衛は牢番の子に黒田姓を与えて小姓にスカウトした。二十四騎中、最も若い黒田三左衛門である。大兵肥満で文武両道に優れ、藩の重鎮になっている。巨大な繰り半月の兜を使用していたことでも有名で現物が残っている。

 

本山一城(もとやまかずき)歴史研究家、漫画家
昭和31年(1956)生まれ。母方の先祖は黒田官兵衛と竹中半兵衛の血をひく特異な家系。歴史漫画、歴史論文を多数執筆。著書に『黒田軍団』『黒田如水と二十五騎』など。



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