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石田退三 松下幸之助が尊敬していた男

北康利(作家)

2014年05月22日 公開 2022年10月05日 更新

PHP文庫『松下幸之助 経営の神様とよばれた男』より』

 

石田退三との出会い

松下幸之助は“巨耳の人”である。

ただ単に耳が大きいだけでなく、それがまるでパラボラアンテナのように前に向かって張り出している。人の話をよく聞いてきたからそういう形になったのだ、という伝説になっているほどだ。

実際、彼は無類の聞き上手であった。ただ漫然と聞くのではなく、「あんたの言うとおりや」「もっともや」と、相手が嬉しくなるような当意即妙の相槌を打ちながら耳を傾ける。すると相手のほうも話に熱がこもり、とっておきのネタを提供してくれるというわけだ。

衆知を集めることは受身ではできない。汗をかきながら拾い集めた情報の蓄積が、彼の決断の精度を上げていったのである。

彼はこんなことを言っている。

「人から非常にいい話を聞いた、非常に感銘した、その感銘したことで頭がいっぱいにつまってしまうと、ほかにもっといいことを聞いても入らない。これではいけない。われわれはどんなことが入っても、それをつまらせたらいけない。まだすきまをおいておく。なんばでも次々と、海綿のごとく吸収していくというような頭にならなければ、頑固オヤジになってしまう」(『松下幸之助発言集 第28巻』昭和48年の発言より)

“なんばでも次々と、海綿のごとく吸収していく”という迫力ある言葉からは、情報収集に対する並々ならぬ執念を感じる。

そんな彼がビジネスの師と仰いだ人物がいた。“トヨタ自動車中興の祖”と呼ばれる石田退三である。

幸之助が石田とはじめて会ったのは昭和26年(1951)ごろのこと、

「トヨタに石田退三という経営の名人がいます。是非お会いになられては」

と勧められたのがきっかけだった。

ここで、幸之助の人生に大きな影響を与えた石田退三という人物について簡単に触れておこう。

石田(旧姓澤田)は、明治21年(1888)11月16日、愛知県知多郡小鈴谷村(現在の常滑市)に生まれている。ソニーの盛田昭夫もこの村の出身だ。石田は幸之助より6歳年上であった。

代々の大きな百姓家で6人兄弟の末子だったが、12歳の時、村長をしていた父澤田徳三郎を亡くし(享年53)、家は没落。進学できず丁稚奉公に出された。

勉強のよくできた彼は滋賀県立第一中学校(現在の彦根東高等学校)を卒業し、一時は代用教員となったが、その後勤めた西洋家具屋で商才を身につけた。結婚を機に家具屋を退職。養子縁組をしてこの時に姓を石田と改めた。上京して呉服問屋に勤めたが、ここもすぐに退職。その後、服部商店(現在の興和株式会社)に入社し、上海駐在中に豊田佐吉と運命の出会いをする。

豊田佐吉は根っからの技術屋である。芸者が踊っている宴席でも、手酌を重ねながら、じっと新しい機械の工夫について考えをめぐらしているような人物であった。

そんな豊田に心ひかれた石田は豊田紡織へと移り、同社の監査役から取締役支配人を経て、豊田自動織機製作所(現在の豊田自動織機)常務となり、戦後社長に就任。折からの労働争議の解決やGHQとの交渉に辣腕をふるった。

昭和8年(1933)、佐吉の息子である豊田喜一郎は豊田自動織機製作所の中に自動車部の看板を掲げ、国産自動車開発に乗りだすが、実は、石田はこれに強く反対した。

天下の三井、三菱ですら手をこまねいた大事業である。豊田には荷が重すぎると考えたからだが、その後、自動車部はトヨタ自動車工業(現在のトヨタ自動車株式会社)として本格的に自動車製造に取り組みはじめた。

戦争中は軍需があったが、戦後になって財閥解体の対象となり、ドッジ・ラインによるデフレの影響もあって経営に行き詰まってしまう。

銀行団は製造と販売の分離(工・販分離)と経営陣の刷新を要求。社長の豊田喜一郎は辞任し、代わって石田が豊田自動織機製作所社長のまま、トヨタ自動車工業の社長を兼務することとなった。昭和25年(1950)のことである。

メインバンクである帝国銀行(後の三井銀行)と東海銀行は、支援継続を約束してくれた。ところがこの時、融資回収に走ったのが住友銀行だ。

「株屋(自動織械)には貸せるが、鍛冶屋(自動車工業)には貸せん」

担当者がそんな言葉を口にしたという伝説が残されている。

「自分の城は自分で守るんだ!」

銀行に頼らなくてもいい会社にしようと石田は檄を飛ばし、社員の心を1つにした。そして“乾いた雑巾をさらに絞る”といった言葉で象徴される、徹底して無駄を排除した低コスト・高収益体質を作りあげる。

銀行取引は人と人との縁である。幸之助の抱いた住友銀行への感謝の思いとは逆の経験が、石田を徹底した住友銀行嫌いにし、その後も敷居をまたがせなかった。三井銀行と合併して三井住友銀行となった今も、トヨタ担当は旧三井銀行出身者に限られているという。

石田は財界活動もせず、ひたすらトヨタのために尽くした人生だったため、ややもすると創業者一族の影に隠れてしまいがちであるが、現在のトヨタ自動車繁栄の礎を築いた中興の祖として、もっと注目されるべき人物であろう。

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